Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

寝る前の時間

未だに娘と一緒に寝ることが多い。娘が強く望んでのことだ。離れて寝た方が良いかもとも思うけれど、一緒に寝て悪いことも特に思いつかない。こちらから強要しているわけでもないので、そのうち自分から離れていく日が来るだろうと思っている。

寝る前の時間は、一緒に本を読んだり、日常の中では話しにくいようなことをお互い話したりできる時間となっている。そのような時間はなかなか取りにくいので、子供が眠った後、別な場所へ離れるのもありだと思うけれど、寝る前の時間一緒に過ごすのは良いこともあると思っている。

昨日は、私もさすがに自分がおかしいと思い日記を再開したけれど、娘もそれを感じていたようだ。

電気を消して一緒に横になった時、急に、「ママが精神病になっちゃうのが心配」「ママが自殺しないか心配」「私のことを忘れちゃうのが怖い」と泣き出した。

私が精神疾患に関する本をたくさん持っているので娘もそれをたまにみたりしているようだ。それで親しい人の人格が変わってしまうことに恐れを抱いているようだ。

私が最近スマホゲームをしていること、お酒をよく買うこと、しんどそうな様子をしていることなどから、最近のママはおかしいと心配していたようなのだ。

すべて私自身自覚していたことだ。

私は、いっぱいいっぱいになったとき、スマホゲームをし続けることがある。その時々の小さな目標を達成するためだけに機械的に指を動かしたら良い。何も考えなくても成果が積み重なっていく。

お酒は、楽しい時も飲むけれど、嫌な気分を忘れたい時も飲む。その飲み方はきっと良くない。

娘にそんな様子をみせてしまっていたことを後悔した。心から詫びた。絶対に自殺などしないことを約束した。

・ゲームをやり続けない。

・嫌な気分の時にお酒で忘れようとしない。

行動を変えることも決めた。

再出発の記

この日記は、娘と居を構えて2人で生きていく記録として始めた。もし、娘が成長し、私がどんな風に生きてきたか知りたいと思ったら、私が死んでからでもみてもらえたら良いかな、と思った。

書くことで気持ちを整理し、困難に立ち向かえるようにするという、治療的な意味をも持つ日記だった。おかげで、私は10年間娘とここまで生きてくることが出来たのだ。

だから、今こそ再び、また書いていくことが必要なのだと思う。

苦しい。誰にも言えないけれど、とても苦しい。

誰にも言えないと言いつつ、苦しい姿を娘に見せてきてしまった。申し訳ないと思う。そうすると娘も苦しくなってしまうから、やっぱり書いてなんとかしようと思う。

何をしても泣きたくなるし、死んだ祖父母に会いたいと思う。

今までになく危機を感じるので、何かあった時の記録としてここに書いておこうと思う。

あとから、こんなこと書いて大変だったなぁ、頑張って乗り切ることが出来てよかったなぁ、と思えることを願いつつ。

一年以上書かなかったから名前もパスワードも忘れていたけれど、ようやく思い出した。よかった。

前向きなことも一つ書いておこう。これを再度書こうと思えたことは、きっと回復の兆しなのだ。希望はある。

言葉の処方箋

樋野興夫氏は、2008年がん哲学外来を開設した順天堂大学医学部の病理学者だ。がん哲学外来とは、医師と患者が対等の立場でがんについて語り合う場で、医学的な治療は一切せず、言葉の処方箋を出す。

この本のタイトルは、マルティン・ルターの言葉がもとになっていて、「自分の命より大切なものがある」という樋野氏の考えを表している。

言葉は薬にも毒にもなる。同じ言葉をかけても、それによって慰められる人と傷つけられる人がいる。

相手に対する配慮をもって、言葉の使い方により気をつけて人に接していきたいと思った。

そして、正論より配慮が必要なんだな、ということも深く受け止めた。

弱っている人に、正論を言うより、温かい配慮ある言葉を投げる。たとえ相手が間違っていたとしても頭ごなしに否定しない。相手の言葉に同意をせず、「ああ、そうか」と放っておく力を身につけたい。悪い点を知っていながら、あえて言わない。そういう人を心から尊敬する。そういう人になりたい、と思う。

森茉莉の家政婦

知識人99人の死に方 (角川文庫)

知識人99人の死に方 (角川文庫)

  • 発売日: 2000/10/21
  • メディア: 文庫

障害児者のヘルパーの仕事をしている。家政婦の仕事に似ていると思う。
死について考えるために、荒俣宏監修『知識人99人の死に方』を読んだ。
大好きな森茉莉の章で、茉莉に気に入られた家政婦の話が出てきた。
側から見るとゴミ屋敷のようになっていた茉莉の部屋だが、茉莉は自分の部屋を他人にいじられるのを嫌った。“おばあさん”呼ばわりされるだけでひとことも口をきかなくなった茉莉の家政婦は何人も代わったというが、茉莉のお目がねにかなったという家政婦の話だ。
彼女は、茉莉の本を愛読しており、彼女の性質をある程度把握していたとのこと。茉莉のためにバラ、カーネーションを部屋に飾ったという。味にうるさい茉莉のための洋食をつくったり、風呂嫌いの茉莉の足を洗ったり、トイレットペーパーの色は白ではなくピンクという茉莉のこだわりに合わせて買い物をした。
茉莉のこだわりに付き合うのは大変だったと思うけれど、とても素敵なエピソードだと思った。森茉莉の家政婦になら、なりたいと思った。失敗して口を聞いてもらえなくなる可能性は高いけれど。
家政婦やヘルパーは、利用者に選ばれる。嫌われると、代えられる。
茉莉の家政婦にならなりたい、など言っている時点で、私は利用者を選んでいる。プロとは言われないだろう。
でも、私は家政婦やヘルパーだって相手を選んで良いと思っている。相性というものはあるのだ。

生理の貧困(Period Poverty)について

生理用品を購入する経済的な余裕がないことを「生理の貧困」と言う。コロナ以前にもあったが、コロナ禍の中で、よくニュースを目にするようになった。シングルマザーも生理の貧困に陥っている人が多いという。

そこで「生理用ナプキンは買わなくても良い」という話をしたいと思う。

私は、生理用品をここ20年ほど購入していない。大学時代に、布ナプキンの魅力を知って以降、経済的な理由以外に健康的な理由でも購入したいと思わなくなった。

何を使っているかというと、着古して不要になった衣類などの布を小さく切って使っている。吸収力や使用感は素材によって差があるので、使用に適したものとそうでないものがある。色々試すと好みのものが出てくると思う。

私は生理が始まった小学生の時から、生理用ナプキンが苦手だった。つけていると不快だった。

布ナプキンをはじめて使った20歳くらいの時は、目から鱗が落ちるほど紙ナプキンとの使用感の差に驚いた。生理痛も軽減された。

これほど違うのか、と実感したため、妊娠した当初は赤ちゃんを布おむつで育てたいと思ったほどだ。

布ナプキンは吸収力が安定しており使い心地は良いけれど、洗濯機に直接入れられず、手洗いをするのが手間だ。

そこで、リサイクルを兼ねて着古した衣類などの布を使うようになった。着古した衣類というものは、月に一度の生理の期間使うのにちょうど良いくらい出てくるので、足りなくなり困ったこともない。

デメリットはあまり思いつかないけれど、吸収力のない素材で分厚く使用する場合は、少しずれたり、自転車に乗ったら痛いことがある、というくらいだ。漏れが心配な時は、トイレットペーパーを布でくるんで使うという技もあるが、その時もずれたり痛かったりする。強いていうならデメリットはそれくらいかな、と思う。

経済的な理由でというより、使い心地が良いから、というポジティブな理由で布を利用している私は、生理の貧困ではない人にも、布の使い心地を知って欲しくて布ナプキンをプレゼントすることが多い。

さて、私が高齢者になり、排泄の失敗が多くなったとしたらリハパン、紙おむつを使用することになると思う。

経血と違い、尿や便は量が多いので、布という訳にはいかなそうだ。

紙ナプキンが肌に合わなかった経験から、私は紙おむつも出来れば使用したくない。

可能なら排泄が自立した状態で死にたいな、と思う。

家に明かりが灯っている幸せ

娘も小学3年生になった。2年生の3学期から練習して出来るようになったこととして、お留守番がある。

学童から集団で帰り、自分で家の鍵を開けて、私が家に帰るまでの2時間弱をひとりで過ごすというお留守番だ。

毎日留守番は嫌なようなので、週に2回だけお留守番をしてもらい、他の日はこれまで通り学童に迎えに行っている。私が仕事を終えて学童に迎えに行くとどうしてもギリギリになり、自転車をとばして帰路を急ぐ際は余裕がなかったところ、週2日だけは余裕が生まれた。

お留守番の日、薄暗くなった景色の中で、我が家に明かりが灯っているのを見ると、娘は無事に帰ってきちんと留守番をしてくれているのだな、と思い嬉しくなる。「ただいまー」と言うと「おかえりー」と言ってもらえるという、それだけのことがとても嬉しい。

と同時に、明かりの灯った家で私が待っていて、「おかえりー」と言いたいな、という気持ちも増すのだ。

民生委員の後継者問題

孤独死のリアル (講談社現代新書)

孤独死のリアル (講談社現代新書)

結城康博著『孤独死のリアル』を読む。先日、ゴミ屋敷の本を読んだばかりだが、孤独死と重複する内容も多い。
孤独死のリアル』を読みながら、孤独死それ自体とは別に気が重くなったことがある。
民生委員の後継者問題が深刻化しているという話だ。
私の祖母はかつて民生委員をしており、私自身はDV離婚で住所を秘匿していた頃、公的な証明書に民生委員の印が必要だったため、地域の民生委員と交流を持っていた。
大変な業務の内容と量だということは簡単に想像がつく。福祉の専門知識がない場合や、民生委員自身が頼れる相談者がいない場合は、さらに業務が難しいのではないかとも思う。
後継者をみつけるのが難しく、高齢化が進んでおり、民生委員自身がその役割を負担に感じているのが現状のようだ。
民生委員というものは無報酬であっても、一種の名誉職だから、それなりに地域で経済と時間に余裕のある人が選ばれるのだろうと、『孤独死のリアル』を読む以前の私は思っていた。そのような社会奉仕に意識の高い人がするものだとも思っていた。現実は、なり手がいないため、 ドライな考えの人がすることになる場合もあるようだ。
民生委員がしているようなことは、民生委員という無報酬の非常勤公務員に任せるべきではないと思う。
今日、私は町内会費を5000円ほど支払ったが、PTA同様、町内会の存在も、今のところ私にとって苦痛でしかない。恩恵を受けているとは思えない。
PTAや町内会、民生委員など、やりたくてもする余裕がない人や、やりたくない人までが無理に役を負わされるようなもののあり方は見直していきたい。