Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

コミュニケーションのテクニック

人間関係にはコミュニケーションのテクニックが必要だ。

このスキルが元夫も私も、互いに高かったとしたら、もしかすると、離婚に至らなかったかもしれない、と最近考えるようになった。
恋人、夫婦、親子などの場合、距離が近い分、相手を主観で見てしまいがちになるようだ。
言い換えると、無意識に「決めつけ」で見るようになる。
この「決めつけ」が、相手を傷つける言葉や態度に出てしまうことも多い。
主観的に決めつけられた側は、認めてもらえないことにより、「自己肯定感」を失っていく。
自分の存在が認められているという絶対的な安心感「自己肯定感」があると他人をも大切に出来る。一方、「自己肯定感」が失われると、自分を守ろうとする「自尊心」のほうが大きくなり、他者を傷つけることもある。そうやって、例えば夫婦間で互いに傷つけ合い、「自己肯定感」を低め合うという悪循環に陥る。
どのようにしたらこのような悪循環に陥らず、コミュニケーションを円滑に進められるかを調べ、まとめてみた。
娘との関係はじめ、近い関係の人には特に、今回まとめたことを意識し、良い関係を保っていけたら嬉しい。そして、仕事においても、特に子どもと関わる場面などで活用していけるスキルなので、しっかり身につけていきたいと思う。
◎I(私)メッセージを使う→「私はこう思う」という意見・情報を伝える。「あなたはこうだ」「あなたはこうしなければならない」というYOU(あなた)メッセージを使わない。I(私)メッセージを使うことで、その意見に対してどう行動するかは、自分自身に委ねられていると相手に感じさせることができる。
◎言葉をできるだけ具体的に伝える→行き違いはよくあること。行き違いに気付いたら真意を伝えなおす
◎いつでも話し合う・相手の意見にも耳を傾けるという姿勢を持つ
 相手の意見を受け入れ、自分自身をもしっかり振り返る姿勢を持つ→その上で自分の行いに反省点があれば、謝罪を含め、その旨をしっかり相手に伝える
◎人格ではなく行動を評価する→よくないことについては、人格の全否定にならないように、行動を対象としたうえで、「たまたま」「めずらしく」など、一時言語を入れる。「いつも」「してばかり」と、いつもそうであるかのように断じる言葉や、「素直」「反抗的」等ほかの価値基準なく絶対的に断定する表現を相手に使わない
◎「なぜ」ではなく「どうしたら〜?」と問いかける→できなくて仕方ないことを責めない。
◎うまくいかなかったことを振り返り、互いに解決法を出す→合議のうえで実践する。解決法はひとつだけではない。
 
書き出すと、当たり前のようなことなのだけれど、自分の言動を客観的に振り返ると、出来ていなかったな、と思うことがいくつかみつかった。
日常の中で他者のやりとりを聞いていても、しっかり上記がクリアされたやりとりを耳にすることのほうが少ないくらいかな、と思う。
実践となると難しいことなのだと認識したうえで、まずは、自分は出来ているはずと思い込まないように注意しながら取り組んでいきたい課題だ。
 

相対性における障害

障害のある方々と実際に接してきた経験上からも、研修や読書などで気付いたことからも、健常者と呼ばれる私たちは多数派に過ぎないという感覚を常に持っている。

それでも、仕事の中で、障害のある方と街を歩いてつい周りの人に「すみません」と言うことがあり、もっと違う言い方が良かったのではないかと反省したりする。

親切にされたのなら「ありがとうございます」だけれど、普通に外出をする中で、「すみません(申し訳ないという意味で)」という言葉を障害者だから、障害者の家族だから、障害福祉職員だからと、たくさん言う必要はない。

例えば私自身が、自分で言葉を発することができず、介護が必要な車椅子使用者だったとして、介助者が、周りの人に「すみません」を多く使っていたら良い気はしないのだろうな、と想像する。自分の存在が申し訳ないもののように感じてしまうからだと思う。

本来、多数派の私たちの方が障害のある人に配慮が行き届かないところに対して「すみません」というところなのではないかと思う。

青木省三著「時代が締め出すこころ」にも、相対性における障害のことが書かれていた。

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人間はそれぞれに遺伝子を持って生まれ、おかれた環境の中で成長・発達していく。自分で主体的に現実や環境を引き受け、それらとの相互作用の中で変化していく存在として育っていく。一時的な病気や障害は、治すという言葉が馴染むかもしれない。しかし、持って生まれたもので、狭い意味での生命予後にもかかわらず、長期間、特に一生持っているものを、治すべき病気や障害ということには、私にはためらいがある。それは、障害であるかもしれないが、まぎれもない自分の一部であるからである。また、健康と呼ばれる多数の人に近づけていくことには、それが生き辛さを軽減するためのものであればまだよいが、多数の人たちに近づけていこうとすること自体が目的となるとき、疑問を感じてしまう。多数派から見たら障害かもしれないが、障害と呼ばれるものを持って生まれた一人の人間として考えれば、障害以前に自分である。自分がそこからしか出発しようがないとき、それを障害という言葉で呼ぶことにはどうしても疑問を感じる。人は障害を持って生まれてくるのではなく、生きていく中の相対性において障害と呼ばれるのだと思う。

社会的・医療的サポートという、人間社会の福祉は、一人の人間として生きていくための支援であるという原点に立ち戻りたい。障害に着目せず、生きることという大筋から必要なことをするというこのが肝要であろう。

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ひとり親としてPTAを考える

PTA不要論 (新潮新書)

PTA不要論 (新潮新書)

PTA問題はひとり親として、非常に頭の痛い問題だと思う。仕事と子どもとの生活をこなすだけで精一杯なのが私の現状だ。自分の空いた時間にできるボランティアなら気が進まない内容でもまだ出来る。本当はPTAもボランティアのはずなのに、そこに強制的な力が働くので、こんなにストレスを感じるのだと思う。きっとほとんどの人がやりたくないことだから、あの人だけ活動しないでズルいというような陰口や仲間外れなども発生する。内部の人間関係のことも含め、考えるだけでお腹が痛くなる。
私は今のPTA会長が怖い。地元の名士である。その人の会長就任の言葉を読んで怖いと思った。自分はいかに忙しいかを書き連ねたうえで、誰もやりたいと思わないかもしれないが、自分はこんなに忙しいのに会長を出来ている。だから、ほかの人もPTAの活動に参加できるはず。個々人が子どものために高い意識を持つべき、という趣旨の内容だった。
その文面を読み大きなストレスを感じ、PTAをしっかり知っておかなくてはならないと思った。黒川祥子著「PTA不要論」を読む。
1947年3月に「父母と先生の会〜教育民主化のために」というPTA結成の手引書が作成され、全国の都道府県知事に発送された。その手引書は以下のように結ばれているようだ。
>>「父母と先生の会」は子どもの幸福のために働き(略)、悪い状態を取り除く。したがってそれは学校のある市や町や村を浄化し、改良していくことにひろがっていく。(略)教育的でないものを社会から取り除いたり、教育になることを社会へ奨励したりする力と権力がどこかになくてはならぬが、「父母と先生の会」はまさにこのための絶好の組織であろう。<<
とても気味の悪い文章だ。一方的な排除や抑圧に率先して関わる組織がPTAの実態だったのか、とショックを受ける。
そして、「コサージュ裁判」に象徴されるような非会員の子どもへの大人による差別は愚の骨頂と思った。
今年度、コロナでPTAのイベントも大きく減っている。それで私が困っていることは何ひとつない。むしろ、救われている。
例えば、私が昨年参加した活動は、家に誰もいないため、子どもを夜の活動に一緒に連れて行かねばならなかった。仕事が終わり、学童に迎えに行った後、家に帰って夕食を食べる余裕もないので学校の近くで外食し、活動が終わる夜遅くまで子どもを待たせて、家に帰ってからお風呂にいれて寝かせる(当然生活リズムがずれて崩れる)、というストレスのかかる仕事が、役員ではなかったが、トータル7回ほどあった。それがない。なくても良かった活動だったのだと思う。

怖い夢

最近、精神に関わる本を立て続けに読んでいるからかどうかわからないけれど、今日は気持ちの悪い夢をみて目が覚めた。

私はペットを飼うことをあまり好まない人間なのだけれど、夢の中では、ひとり暮らしでペットをたくさん飼っていた。犬と猫、猿と兎、鼠と蛇。

友達と遊びに出かけているうちに私はその存在を忘れており、世話を怠ってしまったらしい。餌を与えられず、それらのペットは苦しそうな鳴き声をあげて訴えていた。餌を与えるためペットに近づくのが怖くて私はその状態をしばらけ放置した。

そして、ついに勇気を振り絞って餌を与えると、鼠は真っ先に復活し、部屋中を駆けずりまわった。猫と兎もまもなく復活し、私の居室のほうに飛び出してきた。犬も餌をきちんと食べており、元気になりそうな気配だった。

しかし、死んでいるのか動く気力もないのか、蛇と猿は餌のほうに出てこないのだ。確認のため近づいたら、襲われるかもしれない。それが怖くて私はさらに蛇と猿を放置する。

読書メモ:『他の誰かになりたかった』

他の誰かになりたかった 改訂版 (多重人格から目覚めた自閉の少女の手記)

他の誰かになりたかった 改訂版 (多重人格から目覚めた自閉の少女の手記)

  • 作者:藤家寛子
  • 発売日: 2016/02/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

1979年、地方に生まれたこと以外にも、この本の著者と私に共通しているところがあった。小公女セーラに自分を重ねたこと、同級生が方言を使う中で標準語を話していたこと、お嬢様とからかわれたことがあること等、具体的エピソードの多くが他にもたくさん共通しており、正直驚いた。

一方で、全く共通していないところも、もちろんたくさんあった。私が彼女のように伝統と格式ある裕福な家に生まれたわけではないこと、アスペルガー症候群と診断されていないこと等。

最近、障害とされるものを抱えた人たちの手記を読むことが多い。私自身も障害を抱えていると感じているから、ということもあるけれど、人としてこの世に生を受けた以上、私はあなただったかもしれない、という感覚が強くあるからかな、と思う。

たまたま、私はひとり親という経験をしたり、離婚を経験したりして、それを知って欲しい、とブログを書いたりしているけれど、自分がどんなふうに感じているかを発信することで、ほかの同じような状況にある誰かが少しでも生きやすくなったり、理解が深まることで自分がこの先傷つかずに済むようになれば良いな、という理由もあって発信しているのだと思う。もちろん、自分自身を整理したいという理由もある。

自分は傷つきたくないと思っているし、私はあなただったかもしれないから、自分も誰かを無自覚に、無駄に傷付けることを出来るだけ避けたいと思っている。

読書メモ:『自閉症からのメッセージ』

レインマン(字幕版)

レインマン(字幕版)

  • メディア: Prime Video

自閉症からのメッセ-ジ (講談社現代新書)

自閉症からのメッセ-ジ (講談社現代新書)


面白かったのは、障害によって受けた制約を放置しておけば、脳の発達にも身体の発達にもひずみが生じるという話。身体のひずみの例として、足の裏の写真についての考察があった。
映画『レインマン』の引用も多かったので、再度観たくなった。

読書メモ:コフート心理学入門

今回は、覚え書きのみです。

・いつも自分ばかりにリビドーが向いてしまい、幻覚や妄想を見たり、自閉の世界に入り込み、自分のファンタジーの世界をさまよってしまうというのが自己愛神経症で、これが今でいうところの精神分裂病になります。フロイトは自己愛神経症がもっとも病的な自己愛の形態だと述べているのです。(中略)病的な自己愛状態の重いものが精神分裂病で、軽いものが自己愛パーソナリティ障害であるというように考えることができます。

・自己愛そのものが病的なのではなく、満たされなかった自己愛が病的な状態でとどまってしまうのが病的だというのがコフートの主張です。ただし、それでも自己愛転移が起きるのであれば、精神分析で治療できるというのです。これより重い、自己愛転移すら起きず、自己愛的な人間関係すらもてない重症のパーソナリティ障害のことを、コフートは「ボーダーライン・パーソナリティ障害」と考えました。このボーダーラインと精神病こそが重篤な自己の病理で、精神分析では治療ができないと考えたのです。

・「共感は、他者を包合しようとする自己の拡大であり、個々の人々との間の強力な心理的な結合となる」とも言っています。どういうことかというと、共感していれば自分と他者が同じ感情になれるわけですから、自己が拡大すると言っているのです。そして、共感によって心理的な結合が生まれると言っているのです。さらに、コフートはその論文の中で、「それは多分、性的欲動の昇華であるところの愛よりも、人間がその同胞に向けた破壊性を緩和するものになる」とも述べています。つまり、恋人関係の愛情みたいなものよりは、お互いに共感できるほうが相手の破壊性を緩めることができるし、共感している関係をお互いにもっていられるほうがいい関係なのだということです。