Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

罪悪感について

母を毒親と思うことには、かなりの罪悪感が伴った。一方、母を毒親と思うことで、かなり心が軽くなった。

夫をモラ夫と思えた時の心の変化に似ている。

人のせいにしてはいけない、身近な人を悪く言いたくない、などいろんな気持ちがあったり、自分が変われば良いだけかもしれないと思ったりもしていた。

でも、これは、イジメと同じだ。相手は巧妙にこちらを叩いてくるから力はどんどん奪われていくし、自分が悪いような気になるけれど、そう思ってはならない。

夫も、母親もとても身近な存在だ。自分を愛してくれているはずの存在という前提が目を曇らせる。

夫や母親のように身近な存在のことを悪く思うのはとても悲しいことだ。自分自身も傷つく。

私は、昨日も母についてのブログの一部を夜に削除した。

自分に起こっていることを、文字にすることで、冷静に分析できる。それは、記録ともなり、あとで思い出しやすくなる。それでも、思い出したくないことだし、無かったことにしてしまいたいことなのだ。

だから、きっと書いては消すことも繰り返しながら、私はこのことを乗り越えていくのだと思う。

その行為をする主体が誰か、自分にとって善き存在であるはずのもの(例えば夫や母親)と考えるのではなく、相手の言動そのものをみるようにしようかと思う。たとえば、それを客観的に、他人の話だとしてみたとき、どんな風に感じるのか。できるだけ客観的に考える。

ダブルブッキング

休日は母がずっと家にいるので、距離をおくために外出を多くしていた。

淋しがり屋の母からは、同じことを一緒にすることを求められがちだけれど、できるのは映画を一緒に観るか、トランプゲームをすること、テレビを観ること。一緒ではなく家で自由に行動していると「〇〇でなければならない」と制限を加えられることが多いので、ストレスが溜まる。距離をおくには外出が1番だ。

とはいえ、喫茶店や図書館に一日中いるのもしんどいので、手当たり次第イベントの予約を入れていた。

そんな生活を一年くらい続けていたら、最近、ダブルブッキングが多くなったり、うっかり忘れてしまったり、ということが多くなった。

休日出歩きしっかり休まないということの疲れがたまっていたのだろう、と思う。

フェミニズムの視点で母について考える

アルテイシア著『フェミニズムに出会って長生きしたくなった。』を読む。

久々に連絡をとった友達がフェミニズム研究をしていると話してくれた。私には、フェミニズムの話を身近でできる人がいなかったので、ひっそりフェミニストをしていたけれど、フェミニズムのワードを使って話せることが嬉しく、その友達とは5年ぶりくらいで連絡をとったに関わらず、大いに盛り上がった。その友達が紹介してくれた本である。

この本を読むと、なにやらフェミニストがオシャレにさえ感じれられた。

田嶋陽子氏との対談まで掲載されており、子供の頃好きだった田嶋先生が懐かしく、再会が嬉しかった。

アルテイシア氏の親は、どうも毒親のようだ。亡くなったお母様についての考察を読み、私自身の母についての考察も深まる。

毒母の理解もフェミニズムの視点がなければはじまらない。

アルテイシア氏のお母様は、23歳で結婚し、専業主婦になってら40歳目前で夫から一方的に離婚を言い渡された。59歳の時に、拒食症でガリガリに痩せた遺体で発見されたという。

私の母の様々な矛盾した言動の理由も、本を読みながら、なんとなく見えてきた。

本当は家事が嫌いに見えるのに、人前では家事が好きなように振る舞うこと。何か親として当たり前のようなことをしたに過ぎなかったとしても、恩着せがましく常に感謝を求めてくること、娘を結婚相手にとられたくないと思っていること、などなど。

フェミニズムの視点で考えると、毒母には世代の傾向があるように思える。専業主婦の方が珍しい私たちの世代の毒母の特徴はどのようなものになってくるのだろうか。

毒母の過去

元夫との関係に苦しんでいた時、モラルハラスメントやDVの本を沢山読んだように、今度は、母との関係に悩み、母子関係についての本を沢山読んでいる。

高橋リエ著『お母さん、私を自由にして』を読んで、あらためて母をかわいそうだと思った。

「毒母の言動はすべて、不安から発している」ってその通りだと思う。「感情がマヒしている」「言動が大人げない」とは、まさに私の実母に当てはまるが、それは、幼い頃感情的に満たされなかったことによるもの、ということにも納得した。

母に耐えきれなくなり、私はついに親戚に母のことを話したのだが、その時、母がその親(私の祖母)に兄妹差別を受けて育ったことを教えてもらって知った。祖母は、祖父と喧嘩した際、娘である母を連れて出ていけと祖父に言っていたようだ。

婿取りの祖母が祖父に放った「出ていけ」という言葉を、今度は母が私に放っている。たまたま現実とはならなかったけれど、母は言葉でその母親である祖母に捨てられている。兄妹差別を受けて育たなければ、毒母にならなかったかもしれない。

私は、母から罵られる度に、もう亡くなった祖母に呼びかけ、助けを求めることで心を落ち着かせていたけれど、祖母にも原因があった。

そして、本を読み進め、ゾクッと怖くなったのは、私が離婚に至ったのは、母の影響もかなり大きかったのかもしれないということだ。

気に入らない夫と別れさせて、娘である私を取り戻そうとする態度は実際具体的に見られていた.......

それはさておき、学ぶところが多い本だった。母が自分に都合が悪いとなると、自分で言ったことを「言ってない」と言ったら、過去に起こった出来事を勝手に変えたりして、うそをついているようにみえるときは「うそをついているのではなく、本当に、そう思い込んでいる」ということをきちんと覚えておきたい。

毒母は、「自分が正しい」という思い込みが強いあまり、都合の悪いことはすべて、瞬時に、無意識に、思考で合理化して、記憶を書き替えてしまうらしい。

毒母の自律神経は、つねに非常警戒態勢で、ずっと非常ベルが鳴り続けているような状態ということも肝に銘じておきたい。すべて警戒の目でみているから、アラが目につき、それが不安のタネとなり、愚痴や悪口、ダメだしにつながる。

自分の気持ちをわかってもらおうとするのはやめようと思った。自分のことで精一杯の母に相手に共感する余裕はない。

このように理解を進めてなんとか自分が変わることで付き合っていこうと思うが、自分が壊れる前に逃げようと思う。

賃貸物件を探してみる

賃貸物件を探すのは、元夫に「出ていけ」と言われてこのブログを始めた日に引っ越した家を探して依頼、約10年ぶりだ。

実母に「出ていけ」と言われ、元々住んでいた土地にローンで購入した家があるにも関わらず、仕事を急に辞めたくないので探すことにした。娘ももう少し今の学校の友人関係を継続したいようである。「出ていけ」と言われている原因は、私が母の理想通りの娘ではないからだと認識している。

ネットで探して目星をつけていた部屋は、単身者用だった。

10年前と同じで、賃貸物件は単身者かファミリー用。母子という中途半端な世帯用に用意されているところは少なくとも私が相談したお店からは紹介してもらえなかった。母子用ではないけれど、2人でも住める物件をいくつか紹介してもらう。

5万円以下だと、流しが狭くIHコンロひとつだけ、ワンルームの物件。外観も古めかしい。ここに家電や布団等中古であっても一からそろえ、電気、水道など契約し、2年ほど仕事をしたらまた後始末をし、本来いた場所に引っ越しするなんて馬鹿馬鹿しい。

家電付きのマンスリーマンションは、娘の学区内にはちょうどよくあるはずもなく、学区外でみつかったところは月額9万ほど。

元夫と別居する際、適当な家が見つかるまで幼い子と共にウィークリーマンションを移動し、その間も働きながら家を見つけ引っ越した自分の行動力とエネルギーはあらためて凄かったのだと思う。

そして、私が今後、給与の半分ほどを家賃や引っ越しやら新しい生活のための費用として使い、もともと購入していた家のローンなども払い続ける余裕はないことをあらためて実感した。

実母によるDVの家に住み続ける選択、もしくは仕事を辞めるという選択のどちらかである。今後の転職のことを考えると、一年未満で仕事を辞めるわけにはいかないと思っているので、この危機を乗り越える方法をもう少し考えなければならない。

同じようなことがまたしても起こった。

散々罵られ、自分自身に原因があるのかと思ったが、とりあえず親戚に相談し、客観的に見て問題があるのは実母の方だと言ってもらい、少し安心した。

久々読書メモ

森達也の『ぼくらの時代の罪と罰』を読んだ。

印象に残った箇所をメモしておきたい。

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オウムの死刑囚六人が処刑された日、豪雨で新幹線はずいぶん遅れたけれど、ぎりぎりで京都の公演会場に着くことができた。講演が終わってから、一人の年配の女性が話しかけてきた。

「私は昔、熊本の盲学校でボランティアをしていて、子ども時代の松本智津夫麻原彰晃の本名)くんも覚えています」

熊本県八代市に、松本智津夫は五男二女の四男として生まれている。父親は畳職人。幼い頃から目が悪かった彼は、小学校二年生のときに、全寮制の盲学校に入学させられている。かつて僕は、その学校を訪ねて当時の担任にインタビューしたけれど、この女性には初めて会った。

「どんな子どもでしたか」

そう訊ねるぼくに、彼女は「智津夫くんは家が貧しかったため、週末に両親が面会に来ることもほぼなかったし、多くの子どもたちのように帰省することも(お金がないため)できず、寮に一人ポツンと残っていました」と答えた。

「たまたま私が週末に行くと、嬉しそうに駆けよってきました。私の記憶はそれだけです。世間では一片の同情の余地もない極悪人だけど、私の記憶では、甘えん坊の可愛い子どもです。その智津夫くんが今日、殺されました」

そう言ってから、女性はうつむいて黙り込んだ。肩が静かに震えている。僕は何も言えなかった。(森達也著『ぼくらの時代の罪と罰』より)

「出ていけ」と言われて

母が余命4ヶ月と言われ、少しでも一緒に過ごせたらと思って娘と実家に戻った。

それなりに家事なども頑張ったつもりだ。幾度も心配しながら抗がん剤治療を共に乗り越え、母はとても小さい可能性であった寛解という状態にいたった。

具合が悪いと、人はイライラしがちなものだ。体調が悪い時のイライラをぶつけられるのはきつかったけれど、仕方がないと思ってやってきた。

寛解にいたり、母の体調も回復して喜んでいたら、今度は医療費が大きくかかったことによる経済的な不安から、母は私がもっと稼げる人間でないことを不満に思うようになり、毎日お金の愚痴を言うようになった。

愚痴を聞きたくないからと、家に入れるお金が増えていき、私自身も不安を感じた。そして、家計を見直そうと母に提案したら、ライフスタイルを変えられると思った母が激怒。「出ていけ、帰れ」という話になったのである。

私自身は、仕事を始め、そこそこ仕事内容を面白く感じている。2年未満で仕事を辞めると次に繋げにくいとも思っている。娘も学校に通っており、そうそうすぐに出ていける状態でもない。

「出ていけ」という言葉は、本当にきつい。母からは、これまでの人生でトータル500回に下らないほど聞いてきたけれど、やっぱり慣れるものではない。

母と離れるべきとは思うけれど、遠方の自分の家に戻るには仕事の問題がある。

悲しい。

どうしたものか。