Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

生理の貧困(Period Poverty)について

生理用品を購入する経済的な余裕がないことを「生理の貧困」と言う。コロナ以前にもあったが、コロナ禍の中で、よくニュースを目にするようになった。シングルマザーも生理の貧困に陥っている人が多いという。

そこで「生理用ナプキンは買わなくても良い」という話をしたいと思う。

私は、生理用品をここ20年ほど購入していない。大学時代に、布ナプキンの魅力を知って以降、経済的な理由以外に健康的な理由でも購入したいと思わなくなった。

何を使っているかというと、着古して不要になった衣類などの布を小さく切って使っている。吸収力や使用感は素材によって差があるので、使用に適したものとそうでないものがある。色々試すと好みのものが出てくると思う。

私は生理が始まった小学生の時から、生理用ナプキンが苦手だった。つけていると不快だった。

布ナプキンをはじめて使った20歳くらいの時は、目から鱗が落ちるほど紙ナプキンとの使用感の差に驚いた。生理痛も軽減された。

これほど違うのか、と実感したため、妊娠した当初は赤ちゃんを布おむつで育てたいと思ったほどだ。

布ナプキンは吸収力が安定しており使い心地は良いけれど、洗濯機に直接入れられず、手洗いをするのが手間だ。

そこで、リサイクルを兼ねて着古した衣類などの布を使うようになった。着古した衣類というものは、月に一度の生理の期間使うのにちょうど良いくらい出てくるので、足りなくなり困ったこともない。

デメリットはあまり思いつかないけれど、吸収力のない素材で分厚く使用する場合は、少しずれたり、自転車に乗ったら痛いことがある、というくらいだ。漏れが心配な時は、トイレットペーパーを布でくるんで使うという技もあるが、その時もずれたり痛かったりする。強いていうならデメリットはそれくらいかな、と思う。

経済的な理由でというより、使い心地が良いから、というポジティブな理由で布を利用している私は、生理の貧困ではない人にも、布の使い心地を知って欲しくて布ナプキンをプレゼントすることが多い。

さて、私が高齢者になり、排泄の失敗が多くなったとしたらリハパン、紙おむつを使用することになると思う。

経血と違い、尿や便は量が多いので、布という訳にはいかなそうだ。

紙ナプキンが肌に合わなかった経験から、私は紙おむつも出来れば使用したくない。

可能なら排泄が自立した状態で死にたいな、と思う。

家に明かりが灯っている幸せ

娘も小学3年生になった。2年生の3学期から練習して出来るようになったこととして、お留守番がある。

学童から集団で帰り、自分で家の鍵を開けて、私が家に帰るまでの2時間弱をひとりで過ごすというお留守番だ。

毎日留守番は嫌なようなので、週に2回だけお留守番をしてもらい、他の日はこれまで通り学童に迎えに行っている。私が仕事を終えて学童に迎えに行くとどうしてもギリギリになり、自転車をとばして帰路を急ぐ際は余裕がなかったところ、週2日だけは余裕が生まれた。

お留守番の日、薄暗くなった景色の中で、我が家に明かりが灯っているのを見ると、娘は無事に帰ってきちんと留守番をしてくれているのだな、と思い嬉しくなる。「ただいまー」と言うと「おかえりー」と言ってもらえるという、それだけのことがとても嬉しい。

と同時に、明かりの灯った家で私が待っていて、「おかえりー」と言いたいな、という気持ちも増すのだ。

民生委員の後継者問題

孤独死のリアル (講談社現代新書)

孤独死のリアル (講談社現代新書)

結城康博著『孤独死のリアル』を読む。先日、ゴミ屋敷の本を読んだばかりだが、孤独死と重複する内容も多い。
孤独死のリアル』を読みながら、孤独死それ自体とは別に気が重くなったことがある。
民生委員の後継者問題が深刻化しているという話だ。
私の祖母はかつて民生委員をしており、私自身はDV離婚で住所を秘匿していた頃、公的な証明書に民生委員の印が必要だったため、地域の民生委員と交流を持っていた。
大変な業務の内容と量だということは簡単に想像がつく。福祉の専門知識がない場合や、民生委員自身が頼れる相談者がいない場合は、さらに業務が難しいのではないかとも思う。
後継者をみつけるのが難しく、高齢化が進んでおり、民生委員自身がその役割を負担に感じているのが現状のようだ。
民生委員というものは無報酬であっても、一種の名誉職だから、それなりに地域で経済と時間に余裕のある人が選ばれるのだろうと、『孤独死のリアル』を読む以前の私は思っていた。そのような社会奉仕に意識の高い人がするものだとも思っていた。現実は、なり手がいないため、 ドライな考えの人がすることになる場合もあるようだ。
民生委員がしているようなことは、民生委員という無報酬の非常勤公務員に任せるべきではないと思う。
今日、私は町内会費を5000円ほど支払ったが、PTA同様、町内会の存在も、今のところ私にとって苦痛でしかない。恩恵を受けているとは思えない。
PTAや町内会、民生委員など、やりたくてもする余裕がない人や、やりたくない人までが無理に役を負わされるようなもののあり方は見直していきたい。

藪の中

草薙厚子著『ドキュメント発達障害と少年犯罪』と、川名壮士著『謝るならいつでもおいで』を立て続けに読んだ。この2冊の本は、同じ佐世保小六女児同級生殺害事件を扱っている。どちらも体裁はドキュメントだ。
草薙氏は、元東京鑑別所法務教官である。川名氏は、当時被害者の父親の部下であった新聞記者だ。
それぞれの本の内容に関すること以上に私にとって驚きだったのは、同じ事件について扱った本でありながら、それぞれの本から受ける加害者、加害者の親の印象が違ったということだ。あくまでも私が個人的に受け取った印象ではあるが、大きなズレがあった。
切り取り方、視点が違う。さらに、少年犯罪の不透明性や、加害者が自分自身についてもわかっていない部分があるかもしれないこと、被害者が死亡しており語ることができないことも加わると、物的証拠以外に何を信じられるのか。
ある人が話したこと、誰かがみたこと、記憶していることも、真実かどうかは藪の中だ。語る本人さえわからないかもしれない。同じものを見ても、見え方は違う。

学校では教えてくれない障害と犯罪の話

山本譲司著『刑務所しか居場所がない人たち 学校では教えてくれない、障害と犯罪の話』を読む。子供向けに書かれた本だが、大人で障害福祉の仕事をしていて社会福祉士の勉強をした私でもハッと気付かされることが多い本だった。易しくわかりやすい言葉で書かれているので、娘にも是非読んで欲しいと思う。
引用したいことが沢山ありすぎるけれど、障害福祉施設で働いていた山本氏の以下の文章は、現在重度の方を含む障害者の方々と関わっている私の実感でもあるので引用する。
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でも、断言しよう。障害のある人たちだって、かならずコミュニケーションができる。
僕は、施設で働くなかでよくわかった。相手の訴えたいことをなんとしても聞きたい。こっちの気持ちをなんとしても伝えたい。そう強く思って接すると、ちゃんと意思疎通ができる。障害のために、言葉を語らない人たちもね。
たぶん、ひと言ふた言のやりとりじゃわからない。むずかしいけれど、お互いの気持ちを共感することができると、コミュニケーションが前に進む。
いちばん共感しやすいのは「悲しい」という感情だ。障害のある人は、悲しい思いをたくさん経験しているから、他人の悲しみに敏感だ。あの府中刑務所のレッドゾーンに収容されていた彼らも、きっとそうだったんだと思う。
知的障害のある人の場合、とくに、お母さんが悲しんでいる気持ちはすぐに察する。お母さんの表情が少しでも曇れば、彼らも落ち着かなくなる。そんなとき「悲しいね」「つらいね」って声をかけていると、いつしか心を開いてくれる。
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医療ソーシャルワーカー(MSW)について

おそらく、どんな職場でも理想を持っていると、仕事をする中で現実とのギャップに苦しむことになる。特に福祉や医療は、効率を求め、システマティックに、やっているだけでは良い仕事と言えない。

「枠の中でジレンマを抱えたら、課題分析し、制度を変えていく」ということは文字通り理想的だけれど、様々な人の利害や思惑が絡んだりして、なかなか難しい。色々な意見の人がいるし、多数決が良いとも限らない。

『病院なんか嫌いだ』を読んだ。

ここ最近、福祉職の大変さを考えることが多かったが、医療の仕事も大変だ。

医療者はコロナ禍前から余裕なく悪条件の中で働いていた。そこにコロナが到来し、命を落としたり燃えつきる医療者も多い。

医師、看護師ではないが、私の持つ社会福祉士の資格でも、医療現場で働くことは可能だ。医療ソーシャルワーカーというポストがある。

社会福祉士の資格をとった時、数ある仕事の選択肢の中で医療ソーシャルワーカーを選ばなかったのは、ベッドコントロールに追われ、精神的にきついという話を聞いたからだ。辞める人が多いのか、経験を問わず、資格だけで応募できる医療ソーシャルワーカーの求人も割と多かった。

『病院なんか嫌いだ』を読んで、やはり医療ソーシャルワーカーは、聞いていた通り大変そうだと思った。医療現場自体が大変なのだ。

そんな中で理想を保ち続け、きちんとより良い医療を実践している鎌田實先生の姿には頭が下がる。

冷たい医療ではなく、心ある医療を提供したいと、苦しみながらも奮闘している医療ソーシャルワーカーもきっと多くいるのだろう。

引き続き鎌田先生の著作を読んで医療についても考えていきたい。

【介護福祉士の勉強】リア王の末裔

和田秀樹著『困った老人と上手につきあう方法』を読む。リア王は、困った老人の象徴という話が面白かった。

私は40代前半だ。介護福祉士の資格をとるために勉強をしている。障害福祉の仕事を現在している。祖父母が亡くなって以来、高齢者福祉にはさほど興味なく過ごしてきた。未来の可能性に満ちた児童、多種多様で個性的な障害者と接することに、より興味を持ってきた。

今している介護福祉士の勉強には障害福祉のことも含まれるが、高齢者介護を想定した内容が多い。勉強した分だけ興味が出てくるので、最近は高齢者のこともよく考える。

ヘルパーの勉強をはじめてしたのは、祖母の物忘れがはじまった20年ほど前。祖父母が高齢者になったというきっかけがあった。

今は、自分の両親が高齢者になっており、自分自身が40代になり、老いや老後のことを意識するようになったという時期的なものもあると思う。

「困った老人」となるのは、前頭葉の老化が原因だ。そして、その前頭葉の老化は早ければ40代からはじまるというので、私も他人事のように言っていられない。

肉類を積極的に食べてセロトニンを増やすという方法も神経伝達物質を増やすのに有効なようなので、肉を控えるのはやめようと思う。両親にも肉の摂取を控えなくても良さそうだ、と話してみよう。

さて、認知症による症状は、とくに初期から中期の場合、その言動に元々のパーソナリティや知能が色濃く反映されるものらしい。自分が認知症になった場合どんな言動をとるか想像してみた。

物事の捉え方がネガティブであるよりポジティブな方が、認知症になった後もその瞬間瞬間を楽しく生きることができそうだ。ただ、本人がいくらポジティブ思考であったとしても、介護者の対応と環境如何で、その人の瞬間瞬間が辛く耐え難いものにもなる。介護者の専門的知識と経験に基づいた対応、態度は本当に重要だ。