Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

私が運転しない理由3-視力が弱いから

11月になった。日も短くなり、仕事から帰る頃にはあたりは真っ暗だ。

車通りの多い道を歩いているけれど、街灯も多いわけではないので、車から轢かれるのではないか思いつつ歩いている。護身用の灯りを持ち歩こうかと考え中だ。灯りを持ち歩いている人でなければ、歩行者の私からも歩行者がほとんど見えないし、自転車もライトがついていなければ走ってくるのが見えない。

歩行者としても歩いている人や自転車が見えないのに、スピードのある車に乗っていたりしたら人影に気がついた時にはもう人を轢いているかもしれないと思うと、怖くて車を、特に暗い夜間は運転できない。

私の視力は裸眼だと0.1もない。メガネやコンタクトがないと、鏡の中の自分の顔すらよく見えない。あと、私は目の視野も狭い。私の視野に入らないところ、ミラーにも映らない死角に、何か小さな生き物がいないとも限らないし、進入されてもわからない。

だから、これも車を運転しない理由。

 

私が運転しない理由2 -とび出して車に轢かれたことがあるから

車を運転しようとすると、人を殺してしまうかもしれないと思って運転できない。

私は45歳の頃、乗用車に轢かれた。クリスマスパーティの帰り、雪の降る夜、パーティから乗って帰ってきたタクシーのかげから、道路を挟んで向かい側の家に向かって、プレゼントを開けたい一心でとび出したのだ。完全に私自身や、私を制御できなかった親が悪いと思う。

私は救急車で運ばれた。年末年始の最中、子どもを轢いてしまった相手方が気の毒でならない。

きっと相手方がゆっくり目のスピードで走ってくれていたから私も一命をとりとめた。

運が悪いと、このように運転手がいくら気をつけていても事故に巻き込まれ、加害者になることがある。

とても僅かな可能性なのかもしれない。でも、私が運転する車が、かつての私が引き起こしたような事故に巻き込まれないとは限らない。最悪の場合、人が命を落とす。

誰かの一生を奪ってしまった時、自分自身もどう立ち直ることができるかわからない。

このような理由で、私は運転をしない。

人を乗せる乗り物の運転手になることは出来ないし、ミスが命取りになるという理由において、看護師や医師になることもできない。介護職をしたことがあるが、かなりストレスを感じながらしていた。介護職だって人の命が関わる責任の重い仕事だ。

このような心理的負担を考慮に入れると、運転する仕事全般と介護職は、もっと待遇をあげた方が良いと思う。

運動会と学習発表会の体育表現

運動会や学習発表会について考えている。

私が子どもの頃は、学芸会(学習発表会)に体育表現というものはなかったように記憶しているけれど、現在は、学習発表会に体育表現というものも含まれるようだ。

体育表現をする学年はステージで跳び箱やマット運動、縄跳びなどを披露している。

運動会が別にあるに関わらず、体育表現を披露する学年にあたると、2回も身体能力を人前で発表することになり、運動の苦手な子はさぞかしイヤだろうな、と思う。

私は運動会があまり好きではない。スポーツ観戦も別に好きではないのだけれど、それなりにスポーツを好きな人がやっているであろうスポーツの試合に較べ、誰もが強制参加となる運動会を観る方がより苦手だ。

私自身は、子どもの頃、身体が大きかったので、苦手な競技は特になかったけれど、誰の目にもわかりやすい方法でリアルに順位がつくという運動会の持つ性質が苦手なのだと思う。

全員出場するリレーなどで、遅い子がどんどん抜かれてグループ全体の順位を落とす姿等、身体能力の低い子が必死で頑張る姿をみるのが辛い。そんな子が皆に応援されてやっとゴールする姿をみても別に感動はしない。

この子たちは、これから社会人になってもこんな風に競争させられ、順位をつけられていくのだろう、と憂鬱な気持ちになる。

運動会というイベントがある国はそうそう無いらしく、日本の運動会は、海軍士官の養成所で行われた競闘遊戯会が起源であるらしい。

身体を動かすことに、それなりの健康効果があることは認めるし、子どもたちが保護者に学んだことを発表する場を持つことにも、意義はあると思う。

私のように過敏になっていたら、社会で生き抜くのに苦労するのも事実だと思う。

それでも。一部の子どもたちが、意に反する苦役を強いられているようにみえて、私にとっては観るのすら苦痛なものなのだ。

でも、今のところ、娘は運動会や学習発表会を愉しんでいる。こんな気持ちで私が運動会や学習発表会を観ていることは伝えないでおかなくては、と思う。

私が運転しない理由 1

私が運転しない理由というか言い訳を、自己分析も兼ねてメモしていこうと思う。

ただの、言い訳、合理化、正当化ではあるけれど、あまりにも運転できないことが地方の生活で窮屈に感じているし、現在のところ私の最大のコンプレックスだからだ。

たくさん理由があるので、一つずつ書いていきたい。

「自動車自体が好きではない」

小さい頃から長時間のドライブは具合が悪くなるから嫌いだった。長距離移動しなければならないなら、経済的なことを考えるとバスを利用したりするが、断然電車が良い。時間を効率良く使わなくて良いなら、新幹線より普通電車が良い。

車という狭い空間が窮屈だ。仮に広かったとしても、中でパーティーができるようなリムジンに一生に一度も乗れないまま死んだとしても構わない。キャンピングカーには一度は乗ってみたかったけれど、一度乗ってみたから十分だ。

車に乗らないと行けないところもたくさんあると思うけれど、一生のうち、車に乗らなくても行ける行きたいところをまわりきることも不可能だと思うし、車に乗らないといけないところにどうしても行きたい場合は、お金や人脈に頼る予定だ。車を運転しないまま40歳を過ぎたけれど、だからといってタクシーを利用した回数も限られている。行きたいところには、運転できなくても何とか行けてきた。

モータースポーツは一度くらい経験的に見てみたい気もするけれど、ちょっと怖い気もする。

信号のない道路を横断する時は怖いし、車の多い駐車場を歩く時、車道を自転車で走らなければならない時も怖い。

交通事故のニュースをみると、いつも加害者も被害者も自分だったかもしれないと思う。

前提として、車があまり好きではないという、私と車との相性の問題がある。

最近読んだ本、桜井章一香山リカの対談『どうしたら桜井さんのように「素」で生きられますか?』で、桜井さんも、「自動車」という存在自体があまり好きではない、と言っており、少し嬉しかった。読書メモとして引用しておく。

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「車がなければ現代社会はここまで発展できなかった」と言う人もいるでしょう。しかし、豊かになること、発展すること、広がることなど、この世で「善し」とされる考え方には疑問を抱いているので、自動車などなかったほうがよほど今よりいい社会だったのではないかと思ったりもします。

ラクションを鳴らしながら我が物顔で道路を走っている車を見ると「何を威張ってやがるんだ」と怒りがわいてくるんですよ。人が優先なのに何で歩行者が車に気をつけなければならないのか。そんな場面に出くわすと、俺はもっと車の少なかった時代、つまりまだ幼かった頃の時代に自分を戻すようにしています。

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「自己主張」をはき違える危険

身近にキレやすい人が何人かいる。その人たちの様子に、私もキレはしないまでも、不快な気持ちになり、イラッとする日々だ。というわけで、香山リカ著『キレる大人はなぜ増えた』を読んだ。

「生きるために必要な怒り」と「キレる」の境界について書かれた箇所が面白かった。著者は、この境界を決定する社会や文化が変化する中で、従来なら「不適切な怒りや攻撃」と見なされたものに対しても、「当然の怒りに基づく正当な反応」と認められるようになった、ということなのだろうか、と考察を進める。

私もブログに書いたことがあるが、アメリカ発のアサーティブ・トレーニングについて書かれた箇所でも考えさせられた。

私自身、義務教育時代から、クラスで自分の意見をきちんと発表できることをかっこいいと思ってきたし、会社における会議でもしっかり発言できることを良しとしてきた。国際的な場で日本人が何も言えない姿は恥ずかしいと思ってきた。

主張する人はものを考える人間、精神的に自立している人間であることの証のようなイメージを持ってきた。

しかし、協調のための「自己主張」と、自己のための「自己主張」をはき違える危険性について、この本を読む中で認識した。

現在も、一部YouTuberなど、そこをはき違えているような人がインフルエンサーとして絶大な人気を誇っている。自己主張したくても出来ない多くの人が、自らの理想を彼らに託しているように見える。

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「キレる大人たち」が増える中で、「本当に言うべきことを言えない人」も増えている。非正規雇用の憂き目にあうフリーター、都会との地域格差にあえぐ地方の人たち、医療改革のあおりを受けて治療が必要なのに退院を迫られる病人、彼らこそ本当は怒りや憤りの声をあげ、自分の権利を主張してもよい人のはずだ。ところが、最低の生活も保障されないまま、「こうなってしまったのは自分の責任だ」と自殺を選択する人さえいる。つまり、自己主張が必要な人はいっこうにできず、その必要があまりない人がどんどん自己主張をし、さらにキレて相手に迷惑をかけてまで自分を通そうとする。(香山リカ著『キレる大人はなぜ増えた』より)

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私は、ひとり親として、また、世界的にみたらまだ地位の低い日本の女性として、権利意識を持った上での自己主張が必要だと思っている。結婚していた時は夫婦間でも、自己主張が必要と思った場面で主張してきた。

自分自身にではなく、他者に目を向け、行き過ぎた自己主張をしているような人を目にすると、彼らも、自らを「自己主張が必要だ」と思ってしているのだろうなと思う。

私と彼らの自己認識は自らを、「自己主張が必要だ」と思っている点で、同じだ。と考えると自分自身も行き過ぎた自己主張をしているシーンがあるのかもしれない。

例えば、前職の福祉の仕事では、仕事をしながらご飯を手短に食べ、休憩時間をとっているものとされていた。

このことについて、他の職員も同様に休憩時間を取れていない中、また職員が足りない中で、休憩時間をしっかりとりたいと主張することは、協調のための「自己主張」なのか、自己のための「自己主張」なのか。1人が声を上げることは、皆の待遇改善つながるので、私には協調のための「自己主張」に見えたが、そう主張した人は、他の職員の多くに、はき違えた自己主張と捉えられていたという記憶がある。

協調のための「自己主張」なのか、自己のための「自己主張」なのかも、この例のように社会や文化が決定する。

私にとって、協調のための「自己主張」と思われたことが、他の職員から見たら自己のための「自己主張」と捉えられていた

自らを客観視できるようにするのは難しいけれど、「生きるために必要な怒り」は大切にしていきたい。

もっと理想を言えば、「生きるために必要な怒り」を主張できない人の代弁者でもありたい。福祉用語で言うところのアドボカシーだ。

負け犬からソロ活女子へ

塩野七生著『日本人へ 危機からの脱出』の最初のページには「やらないで後悔するよりも、やって後悔するほうがずっとよい」というニコロ・マキアヴェッリの言葉が引用されていた。

この本と同時並行で読んだのが酒井順子著『負け犬の遠吠え』である。

『負け犬の遠吠え』は、林真理子が解説で「わたしは断言してもいいのであるが、あと五十年後百年後、2000年代の日本の女性について調べる際の第一級の資料になることは間違いない」というような、ベストセラーだ。

20年も前のベストセラーではあるが、未読だったので、最近、私のフェミニズム熱が復活したことをきっかけに、是非読んでおこうと思っていた。

偶然にも、『負け犬の遠吠え』にも、同じニコロ・マキアヴェッリの言葉があった。

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負け犬がよく口にする言葉として、

「やらないで後悔するくらいなら、やって後悔した方がいい」

というものがあります。私達はいつもその言葉を胸に、「面白いこと」に対して突進してきました。

この言葉は、一瞬真理をついているように見えるのです。同じ後悔をするのであれば、何もしないでいるより、何らかの経験を伴っていた方がいいのではないか、と。

私達はしかしその時、「やらない」という選択をすることによって、後悔そのものをせずに済んでいる人もたくさんいるということを忘れています。目先の面白いことを捨てることによって、人生の根本に関わるような大きな後悔もせずに生きている人のことを、

「やらないで後悔なら、やって後悔!」

と叫ぶ負け犬は、見て見ぬフリをしているのです。

面白そうなことを、どうしても選んでしまう。これは負け犬の性であり、業であります。(酒井順子著『負け犬の遠吠え』より)

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負け犬という言葉は何か嫌だなぁ、と思ってきたけれど、私は面白そうなことをどうしても選んでしまう負け犬であることを自覚した。

ひとり親のことについてはほとんど書かれていなかったのが残念だけれど、負け犬を自覚した私には共感できる部分も多く、面白く読めるエッセイだった。

オスの負け犬との座談会で、酒井さんは、負け犬らしいこと(歌舞伎座に行くことなど)をしているのを、勝ち犬に見られたくないというようなことを書いていたのが印象的だった。

それから約20年後の今、ソロ活女子というものが現れた。負け犬らしいことを恥じずに堂々と楽しもうと試みる女性が、自然に世の中に受け入れられるようになってきた象徴だと思う。20年の歳月はかかったけれど、少し進歩している気がする。喜ばしい。

外見を整える

最近少しやる気が出てきている。誕生月ということで運気がアップしているのかもしれない。見た目に気を遣おうという気持ちになってきた。良いことだと思っている。精神状態が悪いと、見た目もあまり気にしないようになるものだ。

私は強度の近視だ。毎日コンタクトをつけるのも目が疲れるので、外見のことは半ばあきらめ、メガネ女子として過ごしている。視力が弱いので、鏡の中の自分すらよく見えず、メイクも下手だ。

でも、最近運転が出来ないこと等諸々で自己肯定感が下がる一方なので、せめて見た目を磨いてそのマイナス分を補おうという気になった。

まずは、美容院に行って髪形を整えた。3ヶ月ぶりだ。

傷だらけになったメガネを買い替えようとメガネを選んだ。3年ぶりくらいだ。

もっと自分を変えたいと思って、ピアスでも開けようかと思ったけれど、閉じたくなった時のことを考えたら面倒だったのでやめた。

そのかわり、ピアスのために調べていた皮膚科で、シミ取りをしてみることにした。頬骨のあたりにシミができたことで、一気に顔が老けて見えるようになったことを気にしていたからだ。予約は年末なので、まだまだ先だけれど、楽しみだ。

そしてピアスのかわりに、イヤーカフを購入してみた。女性が左耳だけにつけているとレズビアン、男性が右耳だけにつけているとゲイ、という意味もあるらしい。知らなかった。

ファッションももっと気を遣っていって、自分の気分を上げていきたい。

野宮真貴著『赤い口紅があればいい』を読んだ影響もあり、自分の年代(40代)に合った服というものをちょっと研究している。