場所と記憶
約20年ぶりに戻り住んだ田舎では、私が子どもだった頃の30年前と変わらぬ風景、公園、小学校、好きだった店や建物の姿に安心した。人の姿は大きく変わっても、風景、建物はあまり変わっていなかった。
とはいえ、建物はもう建て直しの時期にきている。私がここを来年離れ、次に戻ってきた時、たぶん、それらの多くはなくなっているか別の姿になっていると思う。そのことを想像するだけで、少し淋しくなる。
小さい頃、祖母と一緒に行った病院の建物も、今取り壊されている。その建物をみることで思い出していた記憶が薄れていくようだ。祖父母と一緒に行った喫茶店、そこでのエピソードは、その喫茶店を見ると思い出す。小さい頃通った文房具屋さんでの店主とのやりとりは、その文房具屋さんの建物を見ると思い出す。建物は無くなっていても、昔ここに本屋さんがあったなぁ、とその場所を通ると思い出すこともある。
場所や建物は、多くの記憶を呼び覚ます。
記憶は良いものばかりとは限らない。私が、幼い頃、交通事故に遭った場所を、毎日通勤途中に通る。最悪な関係に発展した人と仲の良かった時に通った店の前を通ることもある。
交通事故に遭った場所を通るのは、嫌ではない。私自身の傷は癒やされた。その後、家族がしっかりケアしてくれたからだ。今は、
私の飛び出しにより、私を轢いてしまった運転手さんに申し訳ないという気持ちだけは、その場所を通る度に感じている。嫌な記憶を呼び覚ます場所を通りたくないのは、その傷がまだ癒えていないからなのだと思う。自分なりに後始末をする。そして、嫌な記憶であったとしても、忘れないことも必要だと、空襲の碑をみて思うこともある。