文明の程度は、それが弱い人、頼るところのない人をどのように尊重しているかによって測られるのです。(パール・バック)
- 作者:パール・バック
- 発売日: 2013/06/24
- メディア: 単行本
パール・バックの娘キャロラインは、先天性の新陳代謝障害、フェニールケトン尿症で、知能の発育が困難な子だったという。
パール・バック著『母よ、嘆くなかれ』を読んだ。この本のもとになった原稿は、1950年に雑誌で発表されており、当時、障害児を子に持つということがどのようなことだったのかよくわかる貴重な資料だ。
私は、高校生の頃『大地』を読んで感銘を受けたものの、彼女の他の著作を読んだことが無かった。母になった今、おそらく母になったからこそ、この本のタイトルをみて読んでみたくなった。
パール・バックという人物についてもよく知らなかったが、面白いことが次々にわかった。
彼女は、アメリカ軍人が駐留先の世界各地に捨て去った混血児たちを養子として引き取り、ノーベル賞で得たお金をはじめ、原稿料や印税のほとんどをつぎこんで「ウェルカム・ハウス」を開設・運営していたようだ。常時30人前後の「里親」として養育に励んでいたという。
また、文筆活動をする自分を快く思っていなかった夫とは1934年(42歳の時)に離婚している。
なんだか今の私の関心事(児童福祉・障害福祉・ジェンダー)にぴったりで、20年以上の時を経てパール・バックと再会できたことを嬉しく思う。
知能の発育が困難な子どもの、全人口における割合は決して大きいとはいえませんが、数はわずかでも、そういう子どもが生まれたところではどこでも、なんらかの問題を必ず引き起こします。まったく自分の責任でないのに、知能の発育が困難な子どもがいるだけで、家庭は不幸に陥り、親は気が動転し、また学校では教室が混乱状態になってしまいます。そして親が死亡したり、あるいは世話することができなくなるとか、先生方がさじを投げるということになれば、こうした子どもたちは、救う者もなく、巷をさまよい歩き、そして行く先々で乱暴をはたらくようになるのです。さらにまたこうした子どもたちは、ずる賢い者たちの道具として利用され、救いがたい年少犯罪者となり、そしてついには本格的な犯罪への道へ堕ちてしまうことになります。この子どもたちは、自分がどうしたらいいのかわからないので、こうなってしまうのです。ですから、この子どもたちの非行はすべて無邪気な動機から生まれて来るのです。数多い神の子どもたちのうち、この子ら以上に無邪気なものはいないのですから。(パールバック著『母よ嘆くなかれ』)
『統合失調症 ぼくの手記』を読む
- 作者:リチャード・マクリーン
- 発売日: 2004/09/01
- メディア: 単行本
統合失調症の人は、身近にはいなかったけれど、仕事で接したことがある。統合失調症の人の家族の話も聞いたことがある。
約1%、100人に1人が統合失調症を発症するという。その1%の人たちにはおそらく家族がいる。仮に両親だけとしても2人の家族がいるとすると、当事者含めて少なくとも約3%の人が統合失調症と関係していることになる。(という計算をして良いのかわからないけれど)三十人前後のクラスにひとりそのような人がいるのだと考えると、とても身近な問題に思える。
その人は私だったかもしれない。私がこれまで(福祉の仕事を始めるまで)身近な問題として考えるきっかけがなかったことがむしろ不思議なくらいだ。
リチャード・マクリーン著『統合失調症 ぼくの手記』を読んだ。グラフィック・アーティストでもある彼の絵も多く収録されており、絵により伝わってくるものも多くあった。
私が今の仕事で接している方々は統合失調症という診断名がついているわけではない。でも、何かが見えたら聞こえたりしているようだったり、突然駆け出したり、笑ったり、怒ったり、泣いたり。こちらからすると不可解な行動をとられることがよくある。
多くの疾患の当事者の手記を読むことで、私の視野が広がり、その人に何が起こっているのか考えるヒントを得られたら良いと思う。
子育ての重さ(子供乗せ自転車のこと)
先日、子供乗せ自転車を処分した。約8年一緒に過ごし、世話になった自転車なのに、お別れの日はそれほど寂しくはなかった。
元夫と婚姻していた時に購入した自転車だ。関係は悪化しており、経済的暴力も受けるようになっていた頃だったので、自分の貯金で購入した。
普通の自転車に椅子を取り付けるのは安全面が心配だった。子供の重量に耐えられるボディが低めの、しっかりした重みのある自転車を購入した。そのためか電動でもないのに5万ほど費用がかかったことを覚えている。
車体自体が重い。その自転車に子供を乗せて、片道30分ほどの職場まで往復していた。子供乗せシートが前後に付いているので、仕事帰りにスーパーやコンビニに寄るのも、置き場に苦労した。駐輪場に入らないこともしばしば。
場所を取るので、自転車置き場などない別居先の家でも置き場に苦労した。
そして、元夫に住所を知られないように隠れ住んでいたので、自転車によって見つかってしまうのではないかと、目立つところに自転車を駐めておくのが怖かった。元夫は、自転車の形状を知っているからだ。
子供乗せ自転車は大きく目立つ。重く、子供を乗せてこぐととても疲れる。雨の日も大変だ。
子供乗せ自転車に乗っていると、ひとりで乗っている時も、母であるとみなされる。母の自分を意識しなければならない。独身の解放感を束の間すら味わうことができない。子供乗せ自転車はオシャレでもない。
私は子供乗せ自転車がなければやって来れなかったのに子供乗せ自転車を全く愛して来なかった。
でも、感謝の気持ちはある。愛して来れなかったことを詫びて、8年間、辛い時期を共に過ごしてくれた自転車に別れを告げた。
夏休みの宿題と親の関与
娘の夏休みも今日で終わりだ。夏休みの宿題は、私自身への宿題のようで、すぐに終わらないことが私自身のストレスでもあった。
娘は私とは違う。小学生の頃の私は宿題を早めに終わらせていたけれど、娘も同じタイプなわけではない。
小学校高学年なら、宿題を出来なかったことを本人の責任とも出来るが、小学校1、2年だと少し親にも責任があるような気がする。
学校が臨時休業となっている中、娘は特例預かりで学校に通い、その後学童に通っていた。学校では、基本自習なので、授業はいっさい行われていなかった。小学2年生が自習で出来ることなんて漢字学習や、1年生の復習など限られている。
学校から出た宿題は、在宅の子むけに作られているようで、親がみること前提だった。私の場合、出勤していたけれど、在宅勤務であったとしても、忙しくないわけではないだろう。臨時休業中の大量の課題を仕事をしながら娘にさせるのは大変だった。母親が主婦である家庭が前提の課題に思えた。
そして、この間しっかり勉強出来た子と、出来ない子の学力も大きく開いたのではないかと思う。
夏休みの宿題もしかり。親が働いていると、子どもは夏休みも関係なく、毎朝規則正しく学童に通う。しかし、学童は、勉強や夏休みの宿題をみてくれる場所ではない。
私は、仕事が休みの土日に詰め込み宿題をみることで、やっと最終日の今日までかかり、娘の仕上げさせることができた。
昨年の小学校の自由研究の展示で感じたのは、親の関与が大きい子と、小さい子の格差だった。
海外や国内の様々なところを旅行した記録を多くの写真で表現している子、市販のキットを使っている子など様々。親がどの程度関与したかある程度推測できる。華やかさはもちろん、親が関与した量に比例した。
親が必要最小限の関与だったと思われる素朴な紙粘土の作品が好ましく思えたことを思い出す。
この国に『人を殺してはいけない』なんていうルールはない
- 作者:赤木 智弘
- 発売日: 2007/10/25
- メディア: 単行本
コロナは、日本に限らず世界全体が経験することとなった非常事態だ。「戦争に突入していく雰囲気とか戦時体制下ってこんな感じなのだろうか」と、緊急事態宣言が出たとき、友人とオンラインで話したりしていた。
それで、赤木智弘著『若者を見殺しにする国-私を戦争に向かわせるものは何か』を思い出し、読み始めた。2007年に話題を読んだ論文「『丸山眞男』をひっぱたきたい-31歳、フリーター。希望は、戦争。」を書いた人だ。当時、私も気にはなっていたのだけれど、読む機会を得られずに10年以上経過してしまった。1500円の新刊本に手が出なかったということもある。
私自身、それから色々あった。経済的浮き沈みも経験した。正社員になっても辞めたり、結婚しても離婚してシングルマザーになったり、保証人もいない状況で家探しもままならなかったり、子どもとの時間を犠牲にし、過労死するかと思うくらい働いて精神的に疲弊してまた辞めたり、保証人問題を解決するために莫大な借金(ローン)をして中古の家を購入したり、、、。
仕事を欠勤して、まとまった時間集中できたため、ようやく読了。
赤木さんの文章は、下手な学者が書いた本より、読みやすく説得力があり、知識量も豊富だった。よく考えてきた方なのだと思う。実体験、リアルに基づいてているからこその説得力で、私自身も赤木さんと同世代の失われた10年をリアルに生きてきたからか、言っていることはよくわかり、共感もした。
ページも終わりに近付き、タイトルの言葉が出てきたときは、ずっと共感しながら読んできた私すら、ショックを受けた。その後、やはりその通りだと思った。
直接的に殺すと「嫌な感じ」が残るので、経済的に殺す。
私自身、確かにかつて「子どもと共に殺される」と感じたことがあった。経済的に、そして精神的に。DV夫からのみならず、この国の仕組みに。
コロナの今、そう感じている人は増えているのではないかと思う。
現況届のこと
My Child Lebensbornについて(限られた時間の中で出来ること)
My Child Lebensbornは、世界的に話題となったゲームのタイトルだ。歴史に関するスマホゲームを探していたところ、悲しそうな顔の子供の画像が出てきて、その異質性に興味を惹かれた。
ゲームタイトルにあるレーベンスボルンとは、ナチスが欧州各地に設置した、ノルウェー女性とナチス党員を交配させるための福祉施設のことだ。
このゲームは、戦後、ここで生まれた子に対する嫌悪感や差別意識が強い中、プレーヤーがその子を引き取って養子として育てるゲームである。
私のこれまでのゲーム体験の中では想像も出来ないようなインパクトのあるゲームだった。
ゲームに熱中はするのだけれど、ゲームを続けることが辛くなる。非常なストレスを感じつつゲームを続けることになる。
少しずつ努力し、敵に立ち向かっていけばクリアできるという希望もなく、何が正解かわからない中で、手探りで進めていくゲームだ。
このゲームの中で、上手くできていると思ったのは、仕事と生活のバランス感覚だ。
限られた時間の中で、出来るタスクの優先順位をつけなければならない。
子どもがお腹を空かせないように、学校に必要なものを購入するため、プレーヤーは仕事をする。
仕事の間、子どもは淋しい思いをする。子どもの気持ちに寄り添い丁寧な関わりが出来ない。子どもは身体や衣類が汚れたり、お腹を空かせたり、心を閉ざしていく。
子どもとの関わりを優先させると、お金がなくなる。食事も満足に与えられない。そのことによっても子どもはやはり心を閉ざしていく。
特別な日にはケーキでも作って子どもを喜ばせたりもしたい。そこで残業すると、お金は増えるが、子どもと関わる時間が減る。夜遅くなり、店で必要な買い物をする時間もなくなる。
プレーヤーは、夫婦で子育てしているわけではなく、ひとりで子育てをしているようだ。待ち遠しい週末。週末は収入がなくなるし、出来るだけ平日に蓄えたいけれど、子どもは毎日学校で嫌な思いをして傷ついて帰ってくる。プレーヤーに話を聞いてほしいと思っている。平日に残業し過ぎるのもまた子どもが心配になる。
ご飯も、栄養のあるようなものは調理しないと食べさせられない。それで、また貴重な時間が経過する。
このように、シングルマザーとして、非常にリアリティを感じる時間の経過の中で、子どもの心身のケアをしていくゲームなのだ。
子どもは本当の気持ちを隠しているような時も多い。子どもがどんな風に感じているのか、心理面も考えたうえでの行動の選択をプレーヤーは慎重行う必要がある。
子どもをひとりで養う責任感と、子どもの気持ちに寄り添って丁寧に暮らしたい気持ちの狭間を揺れ動きながら少しずつゲームを進めて、なんとかエピソードにたどり着いた。
このようなテーマをゲームにしようとした制作者に脱帽する。
ゲームだからこそ表現できるものの可能性も感じた。