遺失物
娘の健康保険証を失くした。財布に入っていると思っていたのに、病院の受診時に、無いことに気がついた。家にある可能性が高いと心あたりを探したけれど、見つからず。気付いた日の夕方、交番に届けた。
交番に行ったのは、夫が怖くて逃げ込んだ7年前以来だと思う。
コロナ禍のこんな時期でもあるし、どこの誰に娘の名義(扶養する私のフルネームも載っているので私の名義含めて)を使用されるかわからないという不安によるストレスで、久々に元夫と裁判の決着がつくまでの、不安に怯えていた日々を、交番に入ったこともきっかけとなり、思い出した。
自分の一部が欠損しているような感覚だ。相手方の姓のまま、娘と元夫に居場所を知られないように隠れて暮らし、あり得る最悪のケースを想像していた頃のこと。
それでも、保険証など職場に再発行してもらえば済むので、あの時ほどのストレスではない。
こんなことでもなければ思い出せない(思い出したくない)ほどに、苦しくて、出来れば忘れて生きていたい記憶。
幸い、善意の人にみつかり、警察に届けられた娘の保険証は、1週間も経たずに手元に戻ってきた。予想外のところに落としていた。
もう、大切な物はもちろん、大切な人との関係も失いたくない。失くさないよう気をつけ、大事にしていこうと思った。
離婚を描いた児童文学を父の日に読む
- 作者:松谷 みよ子
- 発売日: 2012/01/17
- メディア: 文庫
今日は父の日だ。
子どもがいても離婚するカップル、ひとり親家庭は多いのに、離婚を描いた児童文学はまだまだ少ない。だから、〈モモちゃんとアカネちゃん〉は、少しだけ古さは感じるものの貴重な離婚を描いた作品だ。
著者の松谷みよ子も、二女が1歳半の時に離婚しており、その最中でこの幼年童話を書いている。
松谷みよ子作『アカネちゃんのなみだの海』の中には、ママが書いた絵本を小2のアカネちゃんが夢の中でよむシーンが出てくる。
「これをごらん。」
おばあさんはふりむいて、二本のかれかかった木がうわっている植木ばちをとると、わかいおかあさんのまえにおきました。
「このはちが、おまえさんの家庭だよ。ふたりともつかれて、かれかかっている。」
わかいおかあさんは、じっとはちを見つめました。
「死に神がきたから、かれてきたのではないよ。くたびれたから、かれてきて、死に神がきたんだよ。」
わかいおかあさんはうなずきました。
おばあさんは、植木ばちから二本の木をひきぬくと、よく根っこをあらいました。それから森の土をほって、一本ずつ、べつべつにうえました。
すると一本の木はみるみるはっぱをしゃんとさせ、すくすくとのびはじめました。
もう一本の木も、はっぱはしゃんとしましたが、あるきはじめたのです。(『アカネちゃんのなみだの海』より)
この描写に、少し救われた気がした。家族神話も今以上に強かった頃の作品だけれど、お互いを生かすための決断としての離婚の側面をしっかり表現していると思う。
ここのところ娘に離婚のことを少しずつ伝えている。
誰かの「ために」と「せいで」と「おかげで」
昨日記事を書いて、気づいたことがある。
誰かの「ために」と「せいで」と「おかげで」の関係について。
夫婦関係、親子関係などを考えるうえでも、重要な視点と思う。
この3つの言葉から連想する言葉を並べてみると、私はイヤな感じがする。
「子どものために」「夫のせいで」「あの時あなたが◯◯してくれたおかげで」「誰のせいでこんなことになっているんだ」「誰のおかげで生活出来ると思っているんだ」「あなたのためを思って言ってるのに」「全部お前のせいだ」「私のせいでこうなったのだから」
少なくとも「ために」や「おかげで」は、単体で使われる時、自己犠牲や奉仕の精神、感謝の気持ちなどを表す、どちらかと言えば賛美されるような言葉なのだと思う。
でも「ために」や「おかげで」は、いとも簡単に「せいで」に変わる。
何かの「ために」と目標をもって頑張ったことの「おかげで」何かを得られた場合はそれが美化される。
それが失敗に終わった場合、「せいで」に変わる。
「子どものため」を思う親の勝手
婚活と衣食住
30代後半、駆け込みという感じに、はじめて婚活を1年ほどしてみた。といっても、3つほどの婚活サイトに登録してメッセージのやりとりを重ね、気が合えば会ってみるという程度のものだ。
婚活サイトの、男性プロフィール、顔写真、自己アピールを見ながら気になる男性を選ぶのだが、blogのような記事を投稿できるサイトもあり、それを読むのが面白くて好きだった。
「結婚を前提とした恋人が欲しい」という共通目的を持ってはいるものの、年齢も職業も経験もさまざまな男性の、自己アピール兼ねた文章を、時に画像付きで読めるのだ。
私の印象としては、自分の食事内容を載せる男性が圧倒的に多く、ほかにはペットの記事、ジョギングやジムの記録、ドライブに行った先の画像などリアルな日常がわかるような記事が多かった。私個人として気になるところの家族観、結婚観など書く人は少数派だった。
ちょっとメッセージをやりとりしてみたシングルファザーの男性も、作った食事内容を毎回メッセージを添えて送ってきた。
婚活サイトなので、女性の日記を読むことは出来ない仕組みになっていたが、きっと女性の日記も同じようなものなのだと思う。
どうしてなんだろう、と思っていてことが、ここのところ考えていた、弁当やら家族やらについての話と結びついた。
私自身の家族観「衣食住を共にする人が家族」ということから考えても、家族になりたい人に自分の衣食住をアピールするのは極めて自然なことなのだと思う。
いくらほかの趣味が合う人でも、衣食住の好みがあまりに合わなければ一緒に暮らしたいと思えないのかもしれない。
その人の写真をみて、ファッションセンスが自分の好みと合わなければ、連絡を取る気にならないかもしれない。
私がとても気になってやりとりしてみた人は、自分の家の画像をたくさん貼りつけており、一緒に住める人を募集していた。私はなにより、その人の住んでいる家に興味を持ってやりとりをしようと思った。
ただ、DV離婚を経験したシングルマザーなら、自分の好みのライフスタイルを実現できていない人が多いと思う。それがストレスになっているとも思う。私も理想のライフスタイルからはまだ遠い生活だ。blogで発表したいとは思わない。
とにかく、自分の結婚観やらなにやら現実の生活とはかけ離れたようなことばかり書いていた私の記事は人気がなかったに違いない。30代後半シングルマザーのうえにプロフィール画像さえ掲載していなかったというだけで記事を読む以前に対象外だろうけれど、、、。
家族とコウノドリ
最近漫画『コウノドリ』をまとめ読みしている。ドラマはみていたけれど、漫画もまた面白い。昨日家族の記事を書いたけれど、『コウノドリ』は主人公の生い立ち含め、まさに家族の物語だ。
家族を増やしたいという意思を持って赤ちゃんを望み不妊治療に励む夫婦もいれば、まだ家族となってもいないカップルに赤ちゃんができることもある。
赤ちゃんができないからと、せっかく家族になった夫婦に溝ができ、離婚することもある。
家族にとって赤ちゃんは大きな存在だ。
赤ちゃんのことを考えたとき、家族についてはじめて考えるという人もいるかもしれない。
養子を考えた時、血の繋がりは重要なのか、遺伝や障害を気にするのか。
私が今関わっている障害者の方々、一人ひとり、家族の物語を持っている。もちろん、私自身も、私の娘も。
『コウノドリ』を読みながら、私が今関わっている人たち、かつて関わっていた人たち、そのご家族のことを思う。
家庭と家族
家庭と家族の違いを調べてみたら、様々な解釈があった。
ひとまず家族が生活を営む場所を家庭とすることもできるけれど、家族ではなくても家庭で一緒に家族のように過ごすこともある。ホームステイをしている留学生、ペット、食事をよく一緒に食べる友人など、、、。
同棲しているカップルは、同じ家にいるのに家族とはならないのか。その生活空間は家庭ではないのか。
血縁関係があるなら同じ家に住んでおらず長年会っていなくても家族なのか。
一人暮らしの場合、その家は家庭といえないのか。その人の親の住む場所が家庭なのか。
内縁の妻は法的には家族ではないのかもしれないけれど、相続の時など、家族のようにみなされることもある。婚外子はどうか?
娘は、物心つかない頃に私が夫と離婚したため、父親の記憶がない。その父親のことを家族とは思っていないようである。もちろん、私も彼を家族とは思っていない。
娘にとって、一緒に暮らしてはいないが、私の両親(娘にとっての祖父母)と母である私が、娘にとっての家族であるようだ。かつては、母(娘にとっての祖母)の再婚相手も家族と認識していたようだ。
家族観は、人それぞれ違うのだろう。私は今のところ、家族は娘のみと思っている。私の両親は、かつて家族だったけれど、今はまったく別にそれぞれ生活をしている。衣食住を共にする人が家族というのが私にとってしっくりくる。
週末は娘の小学校のオンライン授業を一緒に見ていた。ほかの学年の家庭科の授業もみてみた。家庭のことを義務教育で勉強しているんだなぁ、と改めて意識した。そのオンライン授業では、「家族に聞いてみましょう」という言葉が出てきた。
児童福祉施設に暮らす子の場合は、施設の職員が家族の代わりをするのだろうけれど、その子の本当の家族はまた別にいる。児童福祉施設が大規模施設だった場合は、家庭的な雰囲気を目指したとしても、家庭と呼べるものには決してなれない気がする。里親の家なら家庭のイメージに少し近い。
共働きの核家族家庭で育った私は、小中高とずっとみていたTVドラマの、「大草原の小さな家」が家族や家庭のあるべき姿なのだと思っていた。ほぼ毎日見ていたので、そちらも第二の家族や家庭のように感じていたような気がする。
愛情は両親からたっぷり注いでもらってはおり、当時も、家族は父と母だと思ってはいたけれど。
私の昔の家族イメージは、「大草原の小さな家」の影響が強い。
娘の家族イメージは、どこから形成されたのだろう、と考えている。