Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

弁当と家庭

コロナ→昼休み→弁当と考えていたら、さらに書きたいことが増えてきた。

弁当と家庭について、かつて私が持っていた偏見についてだ。

私は、数ある職歴の中で、弁当を持ってくる男性に魅力を感じていなかったし、弁当を持ってくる女性もどちらかといえば苦手な人が多かった。自分も弁当を持って行くようになった今、そのような苦手意識は無くなっている。偏見だったことを認めている。

どうして苦手だったのか考えてみた。家庭に縛られているような感じがしたからだと思う。そして、私は家庭のイメージ自体を嫌っていたからだと思う。

外食するような人は、昼休みにも、新しく美味しい店を開拓していたり、行きつけの店で主人と話したりし、職場以外の場所からも刺激を得るような、好奇心旺盛な人に見えた。

一方で、奥さんの作ってくれた弁当を持ってくる男性は、弁当を奥さんに作らせる亭主関白のように見えたり、まるで彼女や妻がいるから他の人とは付き合いません、とでも言っているような、閉じられた人物に見えていた。

女性はと言えば、やはり、外に開かれていない人物にみえて、家庭的であることをアピールしているかに見えていた。

「今度近くに出来た新しいお店に食べに行こう!」と誘っても「弁当があるから」と断るような人は、話していても何だか保守的な感じがした。(※これまでの記事で、さんざん一人で過ごしたいと書いた割に、私は、固定した関係にならない限り、たまに誰かとお昼を食べに出るのは好きで、誘われるとノリが良かった)

弁当は、その人個人の背景に家庭の存在を大きく感じさせる。

独身者が弁当を持ってくる場合は、その人の育った家庭背景やその人個人のポリシーを感じる。まず、「経済的な理由で」いう人と、それ以外の人の差はなんとなくわかる。それ以外の人は、弁当を会社に持っていくような文化の家庭で育ったような雰囲気がある。独身者がおにぎりとか簡易もの以外におかずが何種か入った弁当を持ってくる場合は、丁寧な生活をしているのだろうと尊敬するけれど、自分の確固たる世界を持っていそうで近寄り難い。

中学、高校時代も、弁当派と注文弁当派と、学食派とに、タイプが分かれていたように思う。自由に自分の食べたいものを選ぶ注文弁当派や学食派に少し憧れていた弁当派の私は、「弁当いらない」と母に言うことが多かった気がする。

中学高校時代の学食派は、大人びてみえる子が多かった。自由で自立している感じがし、カッコイイ子が多かった。親の存在を感じさせなかった。実際は、ネグレクト気味の家庭の子が多かったのかもしれない。

今の私は、弁当を持ってくる人について、単に、弁当の方が美味しいから、経済的だから、買いに行ったり外に出る時間がもったいないから等の理由を持ち、効率を重視している人が多いのだろう、と考えを改めている。

そして、娘の弁当を作る時は、先生にネグレクトと思われないように、というプレッシャーも少し感じつつ作っている。

私が教師なら、子どもの弁当を見て、親のタイプを想像してしまうから。