Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

相対性における障害

障害のある方々と実際に接してきた経験上からも、研修や読書などで気付いたことからも、健常者と呼ばれる私たちは多数派に過ぎないという感覚を常に持っている。

それでも、仕事の中で、障害のある方と街を歩いてつい周りの人に「すみません」と言うことがあり、もっと違う言い方が良かったのではないかと反省したりする。

親切にされたのなら「ありがとうございます」だけれど、普通に外出をする中で、「すみません(申し訳ないという意味で)」という言葉を障害者だから、障害者の家族だから、障害福祉職員だからと、たくさん言う必要はない。

例えば私自身が、自分で言葉を発することができず、介護が必要な車椅子使用者だったとして、介助者が、周りの人に「すみません」を多く使っていたら良い気はしないのだろうな、と想像する。自分の存在が申し訳ないもののように感じてしまうからだと思う。

本来、多数派の私たちの方が障害のある人に配慮が行き届かないところに対して「すみません」というところなのではないかと思う。

青木省三著「時代が締め出すこころ」にも、相対性における障害のことが書かれていた。

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人間はそれぞれに遺伝子を持って生まれ、おかれた環境の中で成長・発達していく。自分で主体的に現実や環境を引き受け、それらとの相互作用の中で変化していく存在として育っていく。一時的な病気や障害は、治すという言葉が馴染むかもしれない。しかし、持って生まれたもので、狭い意味での生命予後にもかかわらず、長期間、特に一生持っているものを、治すべき病気や障害ということには、私にはためらいがある。それは、障害であるかもしれないが、まぎれもない自分の一部であるからである。また、健康と呼ばれる多数の人に近づけていくことには、それが生き辛さを軽減するためのものであればまだよいが、多数の人たちに近づけていこうとすること自体が目的となるとき、疑問を感じてしまう。多数派から見たら障害かもしれないが、障害と呼ばれるものを持って生まれた一人の人間として考えれば、障害以前に自分である。自分がそこからしか出発しようがないとき、それを障害という言葉で呼ぶことにはどうしても疑問を感じる。人は障害を持って生まれてくるのではなく、生きていく中の相対性において障害と呼ばれるのだと思う。

社会的・医療的サポートという、人間社会の福祉は、一人の人間として生きていくための支援であるという原点に立ち戻りたい。障害に着目せず、生きることという大筋から必要なことをするというこのが肝要であろう。

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