Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

『こんな夜更けにバナナかよ』をみて

『こんな夜更けにバナナかよ』、公開当初も観たかった映画がついにAmazonプライムビデオで配信されて嬉しい。
私は今、障害福祉の仕事をしている。
「こんな夜更けにバナナかよ」と言いたくなるようなことは、日常的にたくさんあるけれど、それは「介助者の都合による考え方なのだ」と、いったんイラッとした気持ちを沈めることがだんだん身についてきたように思う。
自分が障害者になったことを考えると、何時であろうとトイレに行きたくなるだろうし、できればリハパンに出したくないし、真夜中何時であろうと水が飲みたくなったりバナナを食べたくなったりするだろう。健常者なら自分でなんとかするところを、障害者だからと可能な限り我慢するのではなく、障害者で様々な制限があるからこそ、可能な限り自由にしたい。
障害者でも嫌なことは嫌だし、夢は抑え込まずに実現させたい。介助が下手なら、介助してもらってるからと指摘するのを我慢しがちかもしれないけれど、介助者に、はっきり改善して欲しいことを伝えたい。改善されたほうが自分の身体や精神に対するストレスがかからない。それを伝える言葉という手段がない場合、あらゆる方法で伝えようとするだろう。介助者としては、そのサインに出来る限り気付きたい。
私は介助者の立場で、支援にストレスを感じているご利用者がいる。身体と精神の障害があり、寝たきりの方だ。特定の人の支援しか受け入れようとせず、介助技術に差はなくても、特定の人の支援以外は拒否し、大げさに痛みを訴えたりわざと失敗するようにさせる。そういう方と思っていても、拒否されると、こちらもじわじわと心に傷がつく。依存される特定の人の側も、その方が複数の人の支援を受け入れないと、負担が大きくなる。
台風や地震など、自然災害があった場合も、寝たきりの人を支援している場合、支援を休むわけにはいかないし、支援できる人が限られていると、自分の体調不良でも、休みにくい。
でも、この映画を観ると、それがその方の生き方だし、それで良いのだと思える。
この映画では、誰かの助けがないと生きていけない時、人の手を借りることの必要性も、主人公の鹿野さんが訴えている。
いくら、人に負担をかけたくないと思っていても、本当に人の手を借りなければならないことは出てくる。
私の場合、DV離婚の時そうだった。人の手を借りるということは、自らの弱い状態をさらけ出して、助けを請う、プライドを捨てた行為のように一見みえる。
でも、考えを進めて、人は皆対等であり、立場が逆転することもある、自分はあなたでもあり、あなたは自分でもあるのだ、と思うと、支援できる人が、困っている人に力を貸すことは当然のことに思える。だから支援を請う側も卑屈にならなくて済む。支援を請う側も、好きで困っている自分をさらけ出しているのではない。必要だからしているにすぎない。
私も、そうして得た支援が拙かった場合は、傷付き、怒りを感じたし、自分が求めている適切な支援だった場合は、素直に感謝の気持ちを支援者に伝えた。
子育ても、「こんな夜更けにバナナかよ」に近いことが沢山ある。最初の試練は授乳と夜泣きだ。まさに、「こんな夜更けに」のことで親は眠れない。必要なこと、介助して当たり前のことだけど、赤ちゃんからは特に感謝もない。落ち着いて眠ってくれるだけだ。赤ちゃんの場合、その愛らしい寝顔を親は対価として受け取るかもしれない。神様は親のストレスを軽減するために子供を愛らしい見た目にした。
障害者と介助者は、もちろん親子関係とは別だが、障害者は当たり前のことをされるのだから、介助されても感謝する義務はない。
この映画ですごいと思ったのは、鹿野さんが、介助者をボランティアでまかなっていることだ。
私は仕事として、対価としてお金を得ているから介助の仕事を続けることが出来ている。お金以外に、様々なものを障害者の方やそのご家族から得てはいるが、娘と自分の生活のためにしている福祉の仕事だ。
自分が障害者となった場合、自立生活をしたいけれど、継続して介助してくれるボランティアを集めるのは、想像しただけで大変だ。誰もが鹿野さんのようにはなれないだろうし、出来ないだろう。鹿野さんも、ボランティアを惹きつけておくために相当な努力をしていたのだろう。
と思うと、家族やボランティアに頼らずに高齢者や障害者が肩身の狭い思いをせずに堂々と自立生活を出来るように、より一層の福祉の充実が必要と思う。