Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

障害者福祉の先駆者、石井筆子のこと

山田火砂子監督『筆子・その愛』という映画があります。日本の近代女子教育者で、石井亮一と共に日本初の知的障害者教育を創始した石井筆子の生涯を描いた映画です。

↓ダイジェストMOVIEは下記サイトからご覧ください。

映画「筆子・その愛」公式サイト

筆子は、やりたいことが多くあっただろう23歳の頃結婚していますが、普通に結婚することには相当な悩みがあったようで、その頃次のような文章を書いています。

我が国においてこれほど結婚しない女性を蔑視するのは、古来、女性を男性の付属物のように看做し、独身女性はその男性のお眼鏡にかなわず選ばれなかった者として見下した名残りが遺伝子にインプットされているのでしょう。親たちも女児が一五、六になるとまるで物品でも扱うかのようにはやく片づけなくてはなどというのはまちがいも甚だしい。しかし親の命に逆らうことほど心苦しいことはなく、世の習慣に逆らうほどつらいことはありません。こうなると教育を受けたことが苦しみのもととなってしまいます。我が国の姉妹同胞のみなさん、こうした悩みを抱えてつらい毎日を暮らしている方も多いと思いますが、どんなに苦しんでも、それが未来の日本女性の権利を獲得するための自分は犠牲となってもいい、という覚悟を決めましょう。そう言うひとが一人でも多くなれば日本ももっと幸せな国になります。(『大日本婦人教育雑誌』に筆子の書いた文章より)

今日、本屋で立ち読みした福祉系の重要人物を羅列した本には夫亮一の名前はあっても彼女の名前はありませんでした。筆子が当時書いたように「女性を男性の付属物のように看做し」が、100年以上経っても根強いな、と苦笑しました。

「教育を受けたことが苦しみのもととなってしまいます」というところも、私なりに解釈して納得しました。毒を吐くようですが、人権意識の低い女性なのか、それなりに「男性の付属物」としての自分に満足している「幸せな妻」を目にすることも多くあります。夫の良し悪し関係なしに、ある程度教育を受けた女性なら、結婚や出産をきっかけに、日本のジェンダーギャップに少なからず疑問を抱くのではないかと思います。私の場合は、たまたまひどいモラ夫でしたが、そうではなかったとしても、私の女性学に対する関心は結婚を機に高くなっていたのではないだろうか、と思います。意識が高くなること(教育を受けたこと)、気づいてしまうことは確かに苦しみのもととなってしまいます。

話をもとに戻します。石井筆子、あまり有名な人ではありませんが、私にとってとても魅力的な人なので、彼女の略歴を書いておきます。

(石井筆子略歴)

石井筆子(1861-1944)は長崎出身で、近代女性教育や障害者福祉の先駆者です。維新後政府の官僚となった父は、新しい世の中を作ることに熱心で、娘の筆子を11歳の頃から東京で学ばせました。筆子は、東京女学校やウィリアム・ホイットニーの英学塾で学び、女学校卒業後、皇后の命で津田梅子、山川捨松らと共に日本初の女子海外留学生として渡欧1884年、23歳で結婚した筆子は鹿鳴館のバザーや夜会に参加し、お雇い外国人ベルツを、その語学力や、「ハカマ」を洋装に利用した勇気などで魅了しました。前アメリカ大統領のグラント将軍来日の際にも、将軍から「日本で最も聡明な女性」と言われたということです24歳からは、華族女学校のフランス語教師となりました。

1886年、25歳で娘の幸子が生まれ、母子共にキリスト教の洗礼を受けますが、生まれた幸子には知的障害があり、次女と三女も夭折してしまいます。名家出身のエリート技師であった夫も1892年、筆子31歳の時に亡くなりました。筆子は障害を持つ子を抱えながら華族女学校の教師を続けます。

1895年には、石井亮一が設立した日本初の知的障害児施設である孤女学院(のちの滝乃川学園)の特別資金募集発起人になります。筆子の部下であった野口幽香と森島美根が貧しい子どものために二葉幼稚園を四谷のスラム街に開園すると、それを応援しました。

1902年からは、長女幸子を預けた滝乃川学園に住み込みで勤めて協力し、石井と再婚します。石井夫妻の生活は質素で、生徒よりいい暮らしはしなかったようです。時代が戦時体制に入り、障害児は戦争遂行の役立たずであると思われた頃、筆子は子どもたちを守りつつ1944年、83歳で亡くなりました。