私が思う名作とは
感受性の貧しかりしを嘆くなり倒れし前の我が身我がこころ(鶴見和子『歌集 回生』)
私は妊婦としての日々を送ったり、DVを受けたり、ひとり親として生活する中で、以前は疑問に思わなかった様々なことに反応するようになった。
人は見たいものを見て生き、関心のないことは見ようとも知ろうともしない。当事者にならなければ絶対にわからないわけではないけれど、当事者になってこそ気付けることは多い。
ということを改めて思いながら読んだのが永井哲著「マンガの中の障害者たち」だ。手塚治虫、大友克洋、安彦良和、山岸涼子、竹宮恵子、赤塚不二夫、つげ義春、その他大勢の作家の作品をみながら、障害者がどのように描かれているか、それを当事者の視点ではどのように捉えるか、その時代背景はどうであったかなどを知ることができる。作家の側は当事者ではない私自身と近い存在である。きちんとした取材をもとに障害者を描いたとしても当事者の視点にはるかに及ばない捉え方をしてしまってることも多かった。障害者ではない私の視点からだと疑問に思わないマンガ作品の「ここに目をつけるのか!」と目から鱗を落としつつどんどん読み進めた。中には自分が慣れ親しんだ作品も出て来るが、新たな見方をできるようになった。
映画も、小説も、マンガも、例えそれが事実に基づいた作品であろうとも、作り手の視点如何で変わってくる。障害者が主人公の作品を観て、その主人公に自分が感情移入したとことろで、作り手の視点を通した自分の視点なのだから、誤解したまま分かった気になってしまうことはきっと多いのだと思う。
先日『二十日鼠と人間』という映画を観た。スタインベック原作で、労働者、黒人、障害者、女性などずっしり重い要素がふんだんに詰め込まれたストーリーで、久々に大きな衝撃を受けた。DVを受ける以前の私がこの作品を観ていたら、作品の中で重要な位置を占める女性「カーリーの妻」の見方はきっと違うものだったと思う。人生のどの時期で映画や小説、マンガに触れるかで本当に作品の捉え方は違ってくる。人がある程度の時をおいて鑑賞し直し、違った感動を受けることが出来る作品というのが私の思う名作だ。
話が飛躍するようだけれど、子どものおもちゃにしてもきっとそうで、意図された決まった遊び方を与えられるおもちゃではなく、その子の工夫・想像力次第で、成長に従って違う遊び方が可能なおもちゃが良いおもちゃだと思う。自然界のあらゆるものが本当は子どもにとってばかりではなく大人にとっても最高のおもちゃだ。