Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

サウナデビュー

昨日サウナデビューを果たした。


サウナの作法もわからなかったし、特に興味もなかったけれど、手軽に新しいことに挑戦したい気になったのだ。ひとつ行動の選択肢が増えるというのは嬉しい。


下調べしてみると「サ道」というドラマもあるようで、若い人も結構利用しているようである。とりあえず基本の作法だけ抑えて家の近くの温泉に行きサウナに入ってみた。


結果、心身にとってかなり良い効果を感じた。身体の疲れがとれたことはもちろん、精神面のストレスも軽減されたように思う。


色々と考えが煮詰まっていたところ、「熱い」ということや、熱に対する身体の反応の方に神経が集中するようになり、何もかも一時的に忘れてリセットされた。最初、サウナにTVが流れていることが気になったけれど、その音すらも気にならなくなるほど熱のことのみを考えられるようになる。


サウナが近所にあって幸せだ。

娘と共に温泉に行っても600円。ひとりなら450円。喫茶店で珈琲を飲むくらいの価格で2時間近くの居場所を確保できて、こんなにもリフレッシュできるとは。


メガネを外すと時計が見えずサウナに入っている時間を確認できないので、何か時間を知る手段を用意した方が良さそうなこと、ペットボトルの水を持参して温泉に行った方がよさそうなことに気が付いた。先輩方のように、サウナから出て水風呂の水をすぐにかぶれるくらいのレベルを目指したい。


40代だけれど、まだまだ世の中には知らないことが沢山ある。次は何に挑戦しようかな、と思っている。

キョリと災害のお見舞いメール

20年以上住み続けた街を離れて、一時的に実家に戻り1年経った。

疎遠だった親戚とは、また関係を取り戻した。10年以上連絡をとっていなかった幼馴染とも、頻繁に会うようになった。

新しい職場で新しい関係を築き、ドライブに連れて行ってくれるくらいの友達もできた。一方、1年前に親しかった友人と連絡を取る回数は、移動直後から比べだいぶ少なくなった。

キョリとはそんなものだ。

電話、メール、いつでもオンラインで繋がることができるけれど、いつでも、と思うと逆にきっかけでもないと連絡しにくくなる。

最近は、災害のお見舞いメールがとても嬉しい。ニュースを見て私のことを思い出し、思ってくれていることがありがたい。

例えば自分が病気になっても心配させるようなことは自分からは伝えにくい。喜ばしいことがあったとしても、やはり自分からは伝えにくい。小さなニュースは全国には流通しないけれど、災害のニュースは全国に流れる。災害には遭いたくないけれど、キョリの離れた友人から災害をきっかけに連絡が来るのは嬉しい。

小さなニュースは、大人となった今、相手の忙しい生活のことを考えると送るまでもない気がして、一度伝えようと思いたって書いたことを消去したりしている。相手の家族や仕事のことを考えて連絡をとるのを遠慮したりする。

私の方からも、キョリの離れた友人に連絡を取ろうと一歩踏み出すきっかけは、誕生日か相手の住んでいる地域の災害ニュースが流れた時となってしまっている今日この頃だ。

記憶

記憶について考えることが多い。

昨日、10年ぶりくらいで墓参りに行った。

墓参り後は、母の実家に行く。母の実家には、故人を知る人々が訪れ、仏壇に線香をあげ、故人の話などをして帰った。親戚もお世話になった故人の家に線香をあげにまわった。

私の世代で、そのようなことをしている人はどのくらいいるのだろう。お盆のこのような習慣は、今後、なくなっていくのかもしれないと思う。

線香をあげにきた人が故人とどのような繋がりを持つのか親戚に尋ね、祖父母や曾祖父母のエピソードを新たに知る。それらのエピソードは、知る人が語らなくなったら、そこで永遠になくなる。私が小さい頃から聞いてきたご先祖様のエピソードも、記録が残っていないとするなら、私が語り継がないといずれ永遠に葬り去られるのだろう。私個人のエピソードも。

私個人のエピソードは、きっかけがあれば娘に語っている。取るに足らないエピソードだ。このブログ自体も。

それでも、私は何か記憶しておきたいと思って書いたり、語ったりする。人間関係も、その人との記憶の蓄積だ。個人の趣味や嗜好も、その人の経験の蓄積だ。思想も、読書体験なり、それを形成するエピソードがあって変化していく。

人は、記憶で出来ている気がする。

空を見る

娘の夏休みの宿題を手伝って、面倒だったけれど空の観察をしている。

空を30分か1時間置きに注意深くみる。ただ美しいと漫然とみるのではなく、注意深くみると様々な発見があって楽しいものだ。

夜空の場合、視力が悪過ぎて、裸眼だと星も見えないけれど、矯正視力でまだまだ星が見えること、星座を観察できることが嬉しい。

メガネとコンタクトに感謝する。

そして、娘の宿題がなければしなかったことなので、宿題を出してくれた先生にも感謝する。

魔法使いと魔法

40歳を過ぎてこんなことを考えているのはおかしいのかもしれないけれど、最近ずっと魔法使いと魔法のことを考えている。

ここ最近、精神面での疲れがかなり溜まっていることを自覚しているのだけれど、「もうだめだ」というレベルに達した時願ったことは、『ロード・オブ・ザ・リング』のガンダルフに会いたい、ということだった。

ガンダルフに会ったからと言って何をしてくれるわけでもないかもしれないけれど、賢者の存在を感じたいという欲求だと思う。

精神面のストレスを自覚し、そのことについて考えるにつけ、昔から魔法だの呪術だの言われてきたことは、人の表現の力なのだと思うようになってきた。

家と会社に、イライラや怒りを常に放出している人がいる。その場が、徐々にパワーを奪っていく磁場となる。

例えば私は娘の笑顔や言葉、友達とのメッセージ交換や、自然、芸術に触れること、睡眠などで少し回復できるのだけれど、会社と家でまたパワーが減少していくのだ。

それらイライラや怒りを放出する存在、つまり黒魔法を使っているような存在に出会う確率は高いけれど、知恵を持ち、動じず、調停的な役割をこなす、いわば白魔法を使えるような存在には、なかなか現実では出会えない。

ファンタジーに出てくる賢者のような存在が身近にいたら良いと思う。これまで生きてきた中で、まぁ、何人かは賢い人にめぐりあった。娘が小さい時お世話になった小児科医の先生、臨床心理士だった先輩、大学の時のゼミの先生など。

誰かの存在に依存するより、自分自身が賢い存在になれたらきっと良いのだろう。

古今東西の賢者たちが書き残した本に触れ、今自分にかかっている呪いを解く方法を自分の力でみつけなければならない。

記憶を失くすということ

先日、娘から「(ママが)私のことを忘れるのが怖い」と言われた。これまでは、「(ママが)死ぬのが怖いから、死なないで」と言われてきた。「死なないで欲しい」ということに、「忘れないで欲しい」が加わったことについて考えている。

人は亡くなっても生きている人の記憶の中で生き続ける。亡くなった人の記憶が生きている人から失われた時が「第二の死」とは、よく言われることだ。ディズニー映画『リメンバー・ミー』もそのことをテーマにしている。

時間の経過と共に自然に記憶は失われていく。覚えておきたい記憶も、忘れたい記憶も。

私の中で、記憶は日常の中で、五感に入ってきたものから蘇ることが多い。

忘れたくない記憶は、写真をみるなどして思い出そう、覚えておこうとすることもある。忘れたい記憶は、思い出そうとはしないし、封じ込めたいと願っているので蘇っても無理に消そうとしている。その行為はなかなか苦しい。

私を目の中に入れても痛くないくらいと言って可愛がってくれた祖母は、認知症になり、ついには私のことをわからなくなった。それは病気なので、私は忘れられたとは思っていない。祖母が忘れようとしたわけではないのだと知っているから。

そのように考えると、病気や老化で認識できなくなるのではなく、意図的に記憶を失くそうとすることは、その相手が忘れて欲しくないと願っている場合、相手に殺人的なダメージを与える行為なのではないかと思う。何かを忘れたくないと願っている人に、忘れさせようとする行為も同じく殺人的なことかもしれない。

娘は父親の記憶を持たないけれど、覚えておきたいと願っていることはよくわかる。最近は、父親のことを色々伝えている。どんなところが娘と似ているか。何が好きだったのか。どんな人だったのか。記憶を創って、忘れないようにする。私にとって、思い出したくなかった彼(娘の父親)も、時と共に幸せだった時の記憶の方を蘇らせることができるようになってきた。きっと時間の経過により忘れ始めてきたのだろう。神様が忘却という能力も人間に授けてくれたことを感謝している。

例えば、私が再婚したとして、相手に子どもがいたとしたら、実親のことを覚えていられるようにしてあげたい。その子にとって大切な存在を私も大切にしたい。実親の話題を口に出来ないような雰囲気にすることは、虐待なのだと思う。

苦しさの分析

ちょっと前までスマホゲームをしていたこの通勤時間、自分のここ最近の苦しさを分析してみようと思う。


1.ベースに有るのは、ひとりっ子、ひとり親、両親が高齢という孤独感。加えて、自分が死んだら娘が天涯孤独になるだろうという不安だ。10年前から変わらないもの。


2.老いて病を持つ母との同居によるストレス。負の言葉を向けられることが多くダメージが大きい。


3.自分に対する自信のなさ。車の運転が怖すぎて出来ないということが大部分を占める。加害恐怖が強い。誰もが出来ることなのに、と思うと、自分はダメだという気持ちが強くなる。自分自身はさほど不便ではないのに、田舎において多数派ではないという苦しさでもある。結婚適齢期に独身でいたことの苦しさと、要素的に、ちょっと似ている気もする。


4.責任と緊張を強いられる仕事の忙しさ。おそらく自分の能力以上の仕事をしている。レベルの合わない志望校に受かってしまって必死についていっている感じだ。


5.人の残酷さがみえる瞬間の積み重ねによる、人への不信感。人の表と裏が見える仕事をしているので、そこに触れる機会が多い。


特に、5が、やっかいだと思う。人には色んな面があるのに、最近は暗い部分に意識がもっていかれる。私のその感覚が娘に引き継がれて欲しくない。


信じて傷つくことはあると知りつつも、それでも、人を信じて、世界を信じて生きていける子になって欲しい。そのために、私自身がまずはそうなりたいと思う。