「自己主張」をはき違える危険
身近にキレやすい人が何人かいる。その人たちの様子に、私もキレはしないまでも、不快な気持ちになり、イラッとする日々だ。というわけで、香山リカ著『キレる大人はなぜ増えた』を読んだ。
「生きるために必要な怒り」と「キレる」の境界について書かれた箇所が面白かった。著者は、この境界を決定する社会や文化が変化する中で、従来なら「不適切な怒りや攻撃」と見なされたものに対しても、「当然の怒りに基づく正当な反応」と認められるようになった、ということなのだろうか、と考察を進める。
私もブログに書いたことがあるが、アメリカ発のアサーティブ・トレーニングについて書かれた箇所でも考えさせられた。
私自身、義務教育時代から、クラスで自分の意見をきちんと発表できることをかっこいいと思ってきたし、会社における会議でもしっかり発言できることを良しとしてきた。国際的な場で日本人が何も言えない姿は恥ずかしいと思ってきた。
主張する人はものを考える人間、精神的に自立している人間であることの証のようなイメージを持ってきた。
しかし、協調のための「自己主張」と、自己のための「自己主張」をはき違える危険性について、この本を読む中で認識した。
現在も、一部YouTuberなど、そこをはき違えているような人がインフルエンサーとして絶大な人気を誇っている。自己主張したくても出来ない多くの人が、自らの理想を彼らに託しているように見える。
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「キレる大人たち」が増える中で、「本当に言うべきことを言えない人」も増えている。非正規雇用の憂き目にあうフリーター、都会との地域格差にあえぐ地方の人たち、医療改革のあおりを受けて治療が必要なのに退院を迫られる病人、彼らこそ本当は怒りや憤りの声をあげ、自分の権利を主張してもよい人のはずだ。ところが、最低の生活も保障されないまま、「こうなってしまったのは自分の責任だ」と自殺を選択する人さえいる。つまり、自己主張が必要な人はいっこうにできず、その必要があまりない人がどんどん自己主張をし、さらにキレて相手に迷惑をかけてまで自分を通そうとする。(香山リカ著『キレる大人はなぜ増えた』より)
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私は、ひとり親として、また、世界的にみたらまだ地位の低い日本の女性として、権利意識を持った上での自己主張が必要だと思っている。結婚していた時は夫婦間でも、自己主張が必要と思った場面で主張してきた。
自分自身にではなく、他者に目を向け、行き過ぎた自己主張をしているような人を目にすると、彼らも、自らを「自己主張が必要だ」と思ってしているのだろうなと思う。
私と彼らの自己認識は自らを、「自己主張が必要だ」と思っている点で、同じだ。と考えると自分自身も行き過ぎた自己主張をしているシーンがあるのかもしれない。
例えば、前職の福祉の仕事では、仕事をしながらご飯を手短に食べ、休憩時間をとっているものとされていた。
このことについて、他の職員も同様に休憩時間を取れていない中、また職員が足りない中で、休憩時間をしっかりとりたいと主張することは、協調のための「自己主張」なのか、自己のための「自己主張」なのか。1人が声を上げることは、皆の待遇改善つながるので、私には協調のための「自己主張」に見えたが、そう主張した人は、他の職員の多くに、はき違えた自己主張と捉えられていたという記憶がある。
協調のための「自己主張」なのか、自己のための「自己主張」なのかも、この例のように社会や文化が決定する。
私にとって、協調のための「自己主張」と思われたことが、他の職員から見たら自己のための「自己主張」と捉えられていた。
自らを客観視できるようにするのは難しいけれど、「生きるために必要な怒り」は大切にしていきたい。
もっと理想を言えば、「生きるために必要な怒り」を主張できない人の代弁者でもありたい。福祉用語で言うところのアドボカシーだ。