Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

勉強しなければだいじょうぶ(発達障害の子と接して感じたこと)

『勉強しなければだいじょうぶ』、これは絵本作家、五味太郎さんの本のタイトルです。勉強は辞書的に言うと「無理にでも努力して励むこと」です。それに対して「学ぶ」ことは主体的なこと。興味あることついて、辿る、沿う、真似る、習いながらアレンジメント、再構成していくというのが「学習作業」なのだと五味さんは言います。

冷ややかな見方をするとね、「英語が喋れる人」になろうと思って喋れるようになった人は、実にくだらないことしか喋れないの。喋っても喋らなくてもいいことを鮮やかに喋る人、なの、たぶん。

児童福祉の勉強をしていて、おのずと教育というもの、学校というものについて考えさせられる日々ですが、今の学校制度は個を失うシステムとして機能していると言う五味さんの話に私も深く共感しました。

対応するのに努力している人、対応力だけがついた人。だって十数年間もその訓練だけまじめにやってきたんだもの。勉強していれば、ある程度一般教養が身について、まあまあの大人になったつもりでいるというのが馬鹿なんだよ。

社会福祉士の実習では、発達障害とされる子にも多く出会ったけれど、私が個として関わる分には、何の問題も感じなかったことがちょっとした驚きでした。そして「あぁ、この子は学校のクラス、集団にいてはじめて異常とされてしまうのだ」と思いました。「病気にさせられている」と感じたのです。発達障害が最近どうして騒がれるようになったのか不思議だったのだけど、それは逆にマジョリティ、多くの人間が平均化されすぎているのかもしれないとも思いました。

それにしても、それにしてもだよ、天気がいいにもかかわらず、月曜日から金曜日まで、朝早くから夕方まで、必ずすべての子どもがある同じスタイル生きていくっていうの、本当に異常だと思う。身体も心もしなしなと柔らかく多感な時期に、ある強制の中で教室という空間に座って、黙って黒板をうつし、テストを受けるということを毎日続けている。時々ならまだしも、毎日続けている。こんなこと生物の生き方としておかしいよ。こんなに異常な暮らしを幼いときからやっていると、多かれ少なかれ病気になるよと単純に思う。

ー事実、病気はいっぱい出てるわけですよね。

さらに病気にさせられちゃうわけです。その息苦しい教室の中で、少しもがいて動いていると「多動症」なんて呼ばれたり、つまらない授業に付き合いきれないやつは「学習障害」などというすさまじい呼ばれ方をして、さらに確実な病気として扱われるんだよね。薬飲まされたり注射打たれたりするところまで、すでにきちゃっているんだよね。この異常さを放っておく社会ってなんなんだろう?薬飲ませて注射打ってまでして受けさせる授業、やらせる勉強って、いったいなんなんだろうか?

勉強しなければだいじょうぶ

勉強しなければだいじょうぶ