Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

トイレット・トレーニングと虐待~子どもにイラッとした時思い出して欲しいこと

今日は部屋を掃除し、冬物を片付けた。手をつけていないBigサイズのおむつは場所をとるけれど、捨てられずにいる。必要な人にあげたいのだが、保育園で引き取ってくれるか聞いてみようかと思う。

うちの娘はおむつがはずれるのが遅いほうだった。働いているとトイレット・トレーニングをする余裕もなかった。私の場合は、朝と晩と休みの日にトイレに行かないか声掛けをしていただけだった。

おむつ代も家計に負担になるので、早くはずれることを強く願っていたけれど、思うようにはいかなかった。赤ちゃんの時より臭いがして量も多くなっていくうんちの処理もひと仕事で、時々いらいらした。

保育園の先生に相談したこともあるけれど、娘の通う保育園の先生は、「子どものペースに合わせるように」とのんびり構えることを私にすすめた。

それは本当に正しいことだったと思う。

西澤哲著『子どものトラウマ』という本の中に書かれていることを長くなるが、重要なことだと思うので引用する。

虐待傾向のある親にトイレット・トレーニングを早くはじめる傾向があることは先に述べたが、これに関連してある母親は、「最近の近所のお母さんたちの関心事は、自分の子どものおむつを少しでも早くはずすことです。みんな近所の子どもより一か月でも早くおむつがはずせるように競争しているんです」と述べている。この母親も「おむつはずし競争」に負けまいと必死になり、失敗を繰り返す子どもに腹を立て、ついには手をあげるようになっていた。彼女たちにとっては、一日も早くおむつをはずすことが「よい母親」「完璧な母親」の証明を意味するものであり、その証明を求めてひとり格闘する中で、わが子に「完璧なよい母親にはなれない自分」を突きつけられ、自分を責めさいなむことになったのである。

こうした完璧性への欲求の背景には、自己肯定感や自己評価の低さが存在していることもある。虐待傾向のある親たちとつきあっていると、彼らの自己評価の低さに気づくことがしばしばある。子どもの頃の自分を否定的にみていたり、親子関係や両親の夫婦関係に問題を抱えていたり、あるいは自分自身の夫婦関係に葛藤を感じていたりなど、それまでの自分という存在を肯定できていなことが多いのである。そして、こうした親たちは、ある意味では「最後のチャンス」として「完璧な親」になろうとしているのではないかと思える。つまり、親として完璧な存在となることが、それまでの人生で得られなかった自己肯定感を回復する最後の砦であるかのように感じているのではないだろうか。しかし、完璧な親などにはけっしてなれるものではない。そこであらたな失敗感や挫折感が生まれ、自己評価をさらに下げることになるのである。

 

人は 無能感を持ったとき、無能感を与えた対象を何とか思い通りに動かすことによって「自分は有能な存在だ」という能力感を回復しようとする。自分のいうことをきく存在がいることで、自分の能力に安心感を持とうとするのである。子どもが自分のいうことをきくということが、実は人間としての自己評価につながっているのである。

 

ある母親は「子どもが自分の思い通りに動いてくれたときには、自分がとても優秀な母親だと思えるが、子どもが思い通りにならないときには、自分が何もできない無能な情けない人間に思える」と述べている。子どもがいうことをきかない。それが親の自己評価を脅かすことになる。脅威を感じた親は自己評価を回復しようとして、さらに子どもの行動をコントロールしようとする。しかし、親の態度におびえを感じた子どもはさらに動けなくなる、といった具合に悪循環を生じてしまう。そして、その悪循環の行き着くところに暴力がある。

これを読んでぎくっとした。DV夫が持つコントロール欲求のからくりと同じだからである。

私たちDV被害者は、結婚生活において自己肯定感を奪われていることが多い。うまく離婚出来たとしても、「離婚してしまったから、ひとり親だからといって、子育てを上手くできないわけではないのよ」と気負ってしまう部分もあると思う。

子どもを虐待してしまうほど親として辛いことはないだろう。子どもにイラッとしてしまった時、ひと呼吸おいてこのからくりを思い出してほしい。

トイレット・トレーニングや早期教育など、焦る必要はない。 

子どものトラウマ (講談社現代新書)

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