Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

新型コロナウィルスとシングルマザー

新型コロナウィルスの感染拡大により、収入が激減したり、失職して収入源を絶たれている人が多い。ネットカフェで寝泊りしていた人は路上に出なければならなくなったり、低所得者、無保険者が適切な検査や治療を受けられなかったり、アメリカなど、諸外国の状況を見ても、コロナ以前に困っていた人から、更に深刻な状況に追いやられている。

コロナ以前にも楽な状況ではなかったシングルマザーも、例外にあらず、大打撃を受けている。

まず、シングルマザーの中で、大企業の庇護を受けつつ、しっかりワークライフバランスをとり、仕事と子育てを両立させている人はひと握りだ。

多くは、実家に頼ったり、生活保護を受けていたり、非正規の仕事をしたり、水商売、風俗の仕事をしたり、シングルマザーに推奨されている福祉や医療の仕事をしている。(※シングルマザーの就業支援では、資格取得支援があるが、介護関連か看護師の資格取得のための支援がほとんどで、幅広く大学卒業資格や、士業の資格取得支援に予算が割かれていない)

水商売、風俗の仕事をしているシングルマザーが悲鳴をあげているというニュースを読んだ。失職すると、家で子どもの面倒をみることができるということになるので、学校の特例預かり(やむを得ない事情で家で面倒をみられない児童を預かってもらえる)の対象からも外れる。学校や学童の先生が様子を確認しにくくなる。母親の様子も、職場の人が確認できない。多くの母子が孤立状態になっていると思う。見通しの絶たない経済的不安を抱えた母親と、その子どもの最低限度の生活を守るための対策は、一刻を争う。

私のように、福祉、医療関連の仕事をしている人はどうかというと、この状況下でも、業務継続の必要性があるので、今ところ失職する可能性は低い。ただ、感染リスクが高い上に、感染リスク防止のための業務が増え、ストレスも高くなる。その子どもは、1日の大半を学童で過ごすので、やはり感染リスクが高い。

娘の場合、私の住む自治体では、学校が特例預かり(やむを得ず家庭で面倒をみることが出来ない児童のみが対象)を実施しているので、娘は学校で自習をし、持参の弁当を食べたのち、学童に行っている。

娘に聞くと、学校では、朝クラスの10%程度の子がいて、お昼で帰る子がいるため、最後までクラスにいる子は、娘含めて2人程度らしい。最後まで残った子が学童に行き、違う学年の子と過ごしているようだ。

娘は、今のところ嫌がらずに学校も学童も行くことが出来ている。娘と、学校の先生や学童の先生に感謝。

職場の同僚からは、子どもをみてもらえてよかったね、と言われる。確かにそうだけれど、私としては、家でみるという選択肢がなく、我が子の感染リスクに目を瞑り預けているので、手放しで喜んでいるわけでもない。子どもはおろか、大人もほとんどいなくなった通学路を、重い弁当や水筒が入ったリュックを背負い、ポツンとひとり歩く我が子の後ろ姿を見送り仕事に行くときは、少し不憫と思ってしまう。

免疫を落とさないように、栄養面を考えた弁当を継続して持たせるには、食費もかさむ。弁当作りで、ただでさえ少ない私の時間も削られている。

そして、先日体調を崩し、動けずに仕事を休んだときは、弁当を作れなかったので、娘も学童を休ませた。動けずほとんど寝ていた私のそばで、娘もほったらかされていたからか、簡単な食事を食べる以外は、PC動画をみるか、娘も私の隣でひたすら寝ていた。

追い討ちをかけるように、4月は出費がかさむ時期。PTA会費やら、町内会費やら、固定資産税(借家の場合は更新料がかかることと思う)の請求が立て続けで、買いだめの余裕もない。

これが、私というシングルマザーの現状だ。

浮気と不倫

浮気という言葉も不倫という言葉も嫌いだけど、ここのところ、その2つのことをずっと考えている。

職場で、不倫に端を発した問題が大きくなっており、コロナに加え、そのストレスが大きい。完全に巻き込まれている。

40歳にもなると、浮気や不倫の事例なんて沢山みてきている。20代の時アルバイトしていたバーでも、人間社会は浮気や不倫なんて当たり前なのだと学んだ。

人との出会いには順番があるので、より遅く出会った人により魅力を感じることがあってもおかしくないと思っているし、人は変わるので、選んだ相手を嫌いになったり、好きではなくなることもあると思う。人が人を好きになるのは理由じゃない部分もあるから、いくら先に恋人や伴侶がいても、浮気や不倫は起こるべくして起こるのだと思っていた。好ましいものではないが、仕方ないもの、という感じだ。両親も離婚しているし、私自身も離婚している。

私が夫と離婚する時は、夫には私が不貞行為をしていると責められたけれど、私の方は夫も浮気をしていると思っていた。

そんなスタンスでこれまで来たので、自分が今回職場の出来事で、ものすごく嫌悪を抱くにいたったことが正直自分でも不思議で、ここのところ不倫について考えていたのだ。吐き気を催すほど、気持ち悪いと思っている。

男に、妻子があって、子どもも沢山だからかもしれない。女が多くの別の男に相談して、まわりを巻き込み苦しませる性質だったかもしれない、など、色々考えたけれど、結果、見出した結論は、至極単純だった。

私がその2人を人として好きではなかったから。私が激しく嫌悪しているのは、浮気や不倫そのものではどうもなさそうなのだ。


母の再婚相手

私の母(娘にとってのおばあちゃん)は、私の実父と離婚しており、その後再婚している。その母が、70歳を目前に、離婚前提の別居をすることになった。

再婚相手との結婚期間は20年を超えている。2人は、それほど、仲の良い感じはしていなかったし、幸せそうではなかったけれど、何となくこのまま添い遂げるのだろうと思っていた。

急に離婚の話が出てきて、ひとりっ子の私は、両親の老後の生活に責任を感じたり心配している。夫婦が助け合って生活していたなら、まだ肩の荷が軽かったのに、と少し心配事が増えた気がしているが、母が、夫からのDVに晒されているよりはずっとマシだと思っている。2人よりひとりの方が幸せになれるなら、それでよかったと思える。

母の再婚相手とは、家族のように接してきたと思うが、母と再婚相手の関係が良くなかったので、私は彼に気を遣いつつ付き合ってきた。

2人が喧嘩し、母が相手を非難していると、話半分に聞くようにしてはいても、相手をより良く思えることはなかったし、客観的に母が良くないと思う時は、彼に対して申し訳ないと思い、喧嘩が長引くと一緒の日常生活も気まずかった。

私にとって、母の再婚相手は、どこまでたっても母の再婚相手であり、母との関係が終われば、そこで終わる関係だった。この件で、彼と話し合うこともない。

母の再婚相手にとっての私も同様なので、母の再婚相手と私の関係は終わった。

母と母の再婚相手が、もっと仲良しだったとしたら、どこまで仲良くなれたのだろう。

今考えていること(コロナ・福祉・DV・ひとり親についてなど)

新型コロナウイルスが猛威をふるっている今、DVや離婚、家庭内の問題が増えているというニュースを読んだ。

別居前の自分自身を振り返ると、週末の休みや、長期休暇で、夫といる時間が長くなることがたまらなく苦痛だった。それすら苦痛だったのに、距離を置くための外出もままならないこんな状況下、毎日同じ家の中で生活すせざるを得ないのであれば、どれだけ悲惨なことになっているか、想像するだけで息がつまる。

学校に行けず家にいなければならない子供にも多大な被害が及んでいることと思う。

そんなストレスから解放されているはずの私すら、自分自身や娘、両親がコロナウイルスにかかって死んでしまうことになったら、どうなるのか、常に考えてしまう。職を失い、経済面での十分な補償もなされなかったら娘をどうやって養っていけば良いのだろう、とも考える。日々不安でたまらずストレスが溜まる一方だ。

私がコロナに罹患したら、高齢で基礎疾患もある両親に預けるのもリスクが高い。児童相談所が動き、娘は施設に預けられるのだろうか。ただでさえ、空きがない施設にそんな余裕があるはずもない。施設での集団生活自体リスクも高い。

この状況が長期化するなら、身寄りがなくなっていく人たち(ひとり親の子ども、氷河期世代で職がなく親の収入に頼って生活している人など)、コロナ以前から社会的弱者だった人から順にコロナにかからずとも、ほかの理由(経済的困窮、絶望による自殺など)で消されていってしまう。

コロナ以前から、社会的弱者はさらに厳しい局面に追い込まれる一方だったのだから、あらゆる人が一様に不安に苛まれている今、今さら社会的弱者に救いの手が差し伸べられるはずもない。

こんな希望のない状態を、戦時下の生活に置き換えて考えてみたけれど、人と人との繋がり、支え合いがあったからこそやってこれた部分は大きいと思う。

そんなこんな考えているうちに、愛こそ全てだ、と思った。

これは、娘がいてよかった、両親が生きていてよかったとかいう、単純な話ではない。

例えば、私が独身者であったとしても、こんな時こそ誰かに愛を注ぎたい。その対象をみつけたいと思う。

濃厚接触のある福祉の仕事が、コロナの初期は少し嫌になっていた。感染リスクが高いから辞めたいとすら思っていた。でも、今は、人との繋がりがある仕事でよかったと思っている。

愛を注げる人がたくさんいる。

身近な人が死んでしまってひとりになっても、自分も死のうなどと思わずに、愛を大切に生きていきたいと思う。

掃除のための読書

ダメをみがく―“女子”の呪いを解く方法

ダメをみがく―“女子”の呪いを解く方法

年末なので、少しずつ身辺の整理をしている。

家の中で、何が場所をとっているかというと、衣類と本だ。これがなければ、本当にスッキリした家になることだろう。

衣類の整理は簡単に出来るようになってきた。娘が小さい頃は、もしかしたらもう1人子どもを育てることになるかもと、状態の良い服を保存しがちだったけれど、それはもう止めたので、どんどん捨てている。デザインが気に入っていて捨てがたい服のみ、残すことにしている。母も、そのように私の服を残してくれていたので、今、娘は私の小さい頃の服も着ている。娘が子どもを持つかわからないけれど、孫が着ることになるかもしれない。孫ができなくても、眺めるだけで楽しい気分になれる服のみ残している。

問題は本だ。私はどんなにつまらない本でも、本当にいらない情報か目を通さなければ処分できない。ものを片付けるために本を読んでいるから、年中すっきり片付かないし、時間がかかる。それで、本を読むことにより、その本の中で紹介されていた本や人物や事柄に興味を持ち、新たな本を購入することを繰り返している。ある程度本をまとめて売りに行った先でさらに本を購入するのでなかなか減らない。

でも、電子書籍を読む気にはならない。紙の本が好きなので。

今朝は、津村記久子深澤真紀著『ダメをみがく』。単行本で読んだ。面白かったので、また読むかもしれない。となると、せっかく読了したので単行本は売ってサイズの小さい文庫版を購入しておこうかな、など考えた。ダメな感じがする考えだな、と思った

テレビと災害と仕事

20年ほどテレビの無い生活を続けている。テレビが嫌な理由は、テレビがあったら見てしまうので他のことをする時間がなくなるから。テレビがあったら見たい番組がありすぎて、録画しても追いつかず追い詰められているような気になるだろうから。
というわけで、テレビの魅力を認めていないわけではない。
テレビの映像として見ることで現実感が無くなってしまうこと、テレビを見ないほうが、マスメディアの意図的な操作の影響を、受けずに済むことはあると思うけれど、テレビを見ないデメリットもあるのだろうな、と思っている。
ニュースは、主にネットで見ており、職場で、余裕のある時は新聞にも目を通す。これらは、能動的なことだけれど、テレビは、人を受動的にする媒体なので、テレビを見ることにより、自分が積極的に知りたいとは思っていない情報を得ることでき、刺激を受け、視野が広がることもあると思っている。
東日本大震災の時も私はテレビを見ていなかったが、先日の台風19号の際は、たまたまTVのある場所にいて、ニュースを見ていた。同じ映像が繰り返し流されていた。その中で自分がさらに知りたくなった情報はTVにら出てこなかったのでネットで調べた。
台風19号の時は、川越市で孤立した特別養護老人ホームが気になった。ご利用者のこともあるけど、それ以上に、そこで働く職員はどんな思いでいるのだろう、と、職員の気持ちを考えていた。
暴風雨の中、歩いている人や車に乗っている人の映像が映ると、仕事で移動せざるを得ない状況なのかな、と思い、もしそうなら雇用主は従業員の安全配慮義務を怠っていると、勝手に想像し、腹を立てていた。
災害時に、仕事に就いていなければ助かっただろう殉職した人もいるし、災害時に仕事として動いてくれた人がいるおかげで助かった人もいる。
仕事をとらず、自分の命を守ろうとした人、自分の命を顧みず他者を助けようとした人、どちらが良いとか悪いとかではなく、どちらも命を守る行動という意味で正しいと思う。
仕事だからとか関係なく、今、目の前にいる人が困っていたら助けたい。自分の家族もそうやって助けてもらえるという社会に対する信頼感を持てたら良いな、と思う。
残念だったのは、避難してきたホームレスの受け入れを拒否した自治体があったこと。仕事として、住所が無いとホームレスを受け入れることが出来ないと判断した公務員がいるということだった。こうなると、社会に対する不信感が募ってしまう。
仕事から離れ一個人としてだったらとっていたであろう、とりたい行動と、勤務中だからとらなければならなかった行動と、ギャップのある人はいると思う。
思えば、私の前職は、仕事としてしなければならないことと、個人としてしたいことのギャップが大きかったのが1番大きなストレスだったような気がする。

拾い物レベルUP

アメリカ生まれの日本語詩人、アーサー・ビナード著「日々の非常口」を読み、拾い物が多いことについてのエッセイを読みながら、気付いたことがある。
私は、拾い物のレベルを上げている。私のまわりには拾い物が上手な人が数人いる。良いものを拾う能力に長けている人がいるのだ。当時の私は、拾い物の能力がなく、拾い物が得意な人を心から尊敬し、かっこいいと思っていた。
そんな私はここ最近、街に出ていて、良いものをゲットすることが続いている。拾い物に憧れていた20年ほど前は、一年に一度も拾えなかったのに、このひと月で、3度も拾い物をした。要は、街歩きの際に、キョロキョロ色々なものをみているかみていないか、ということなのだと思う。
人は、自分にとって興味のあるもの、親しみのあるものを中心に街の中で注目しがちだと思う。車が好きなら、車をみると思うけれど、私は車について詳しくないし、ほとんど注目していない。猫好きなら、猫を見つける確率も増えると思う。美人が好きなら美人、、、。
拾い物に関しては、まず、拾い物が存在するという前提からはじまり、それらは立派に中古品として活かすことが可能なお宝なのだという意識を持つことが前提で、そうでなければ、ゴミとしか映らないのだろうと思う。

日々の非常口 (新潮文庫)

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