【介護福祉士の勉強】ディオゲネスの末裔
- 作者:都築響一
- 発売日: 2008/11/15
- メディア: ペーパーバック
コロナで、人と繋がりを持つ機会も希薄になり、セルフネグレクト状態に陥っている人が多くなっていることと思う。
昨日も、仕事先からの帰り、大量のゴミ袋をトラックに詰め込んでいる光景をみた。ただ、亡くなった人の家を整理していただけかもしれないけれど、ゴミ屋敷だったのかな、と何となく思った。
『ルポ ゴミ屋敷に棲む人々-孤立死「呼ぶ「セルフ・ネグレクト」の実態』を読んだ。
セルフネグレクトへの介入時、拒否があると支援がとても難しい。
愚行権というものがある。趣味にお金を注ぎ込んで、趣味の物で部屋が溢れ、他人からみたらゴミ屋敷にみえたとしても、お酒が好きで、お菓子が好きで健康を害していたとしても、それをあえて行う自由がある。
誰かの目からみて正しいからと言って、それを人に強制することはできない。
私はお酒が好きだし、お菓子も好きだ。お酒やお菓子、さらに本を購入することや喫茶店で過ごすことにこれまでの人生でどれほどのお金を費やしたかわからない。他人から見たら愚かな行動かもしれない。
服が大好きで、服に埋もれて過ごす人の写真集、都築響一の「着倒れ方丈記」は、私にとって実に魅力的な写真集だった。
例えば、私が今「あなたの生活は改善すべきだ」と約束もしていない見知らぬ人間に言われたとしたら、自分の生活を否定されたことに腹を立て、そんな筋合いはないと拒否するかもしれない。少なくとも自尊心が傷つく。
ライブイベント型のセルフ・ネグレクトというものもある。人間にとって最もストレスフルなライブイベントは配偶者の死という研究もあるらしい。離婚も配偶者との別れという意味ではストレスフルなので、私のようなひとり親もセルフ・ネグレクトにも陥りやすいと思う。
ひとり親が自身をネグレクトするということは、その子どもをネグレクトすることにも繋がる。高齢者同様、離婚経験者もリスクが高いのだろうと思う。
ひとり親が子どもを巻き込んでセルフネグレクトしていたら、児童虐待の観点から、愚行権などと言ってはいられない。介入すべきと思う。
認知、判断力が衰えた人が、生命の危機に陥っているのに拒否を続けている場合はどうするのか。認知、判断力が衰えていると、何を基準に判断すべきなのか。
古代ギリシャの犬儒学派の哲学者であるディオゲネスは、あらゆる慣習的行為や社会通念を軽蔑し、極貧の路上生活者のような生活を送ったという。これが、セルフ・ネグレクトの原型と言えるかもしれないらしい。
認知や判断力が低下していない成人の場合、正しい情報と知識を提供したうえで、本人の意思を尊重するのは当然のことである。
どうしても支援したい場合、「◯◯させて欲しい」とこちらがお願いするかたちをとったり、ご本人が直接的に困っていることを解決することからスモールステップで支援していくとうまくいきやすいようだ。