Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

怒りのコントロールについて

このブログは、怒りをバネに頑張った記録と言っても良いくらいのブログだ。だからと言って怒りを上手くコントロール出来ている自信はない。

怒りをコントロールする方法を知ることは、DV、モラハラ対策としても有効と思うし、仕事や子どもの生活にも参考にできる。私は娘を上手に叱ることが出来るようにもなりたい。

安藤俊介著「誰にでもできるアンガーマネジメント」を読んで、しっかり覚えておきたいと思ったことを書いておきます。

◎怒りの感情自体、悪いものではなく、自然な感情である。怒りというのは、本来、身を守るためにある感情。怒りの感情を持ってはならないものととらえないほうが良い。

◎怒りのエネルギーの使い方を誤ると、人をも自分をも傷つける。アンガーコントロールとは、怒る必要のあることは上手に怒り(怒りを適切に表現し)、怒る必要のないのとは怒らなくて済むように線引きすること。私たちは「怒ることは良くないこと」と言われて育っているが、怒っている自分を否定すると、自分を責めるという感情が、さらに怒りの感情を生み出しやすくする。

◎イライラしたときには、どのように行動するかを4つに分類して整理する。1.自分の力でそれを変えられる、重要なこと。→今すぐにとりかからなければいけないこと。2.自分の力ではそれを変えられないが、重要なこと。→変えられないということを受け入れた上で選択肢を探す。3.自分の力でそれを変えられる、重要ではないこと。→余力があればとりかかればよい課題。4.自分の力では変えられない重要ではないこと。→放っておけばいいこと。※分類するときには、「どの選択肢を選ぶことが自分にとっても、周りの人にとっても長期的で健康的でいられるか?」を併せて考え、判断する。

◎イライラしない人は、普段から譲れないもの、譲ってよいものの線引きをよく考えている。この線引きができていないと、同じことにも、あるときは頭にきて、ある時は腹が立たないということが起き、それは、その時の機嫌により左右される。譲ってもよいことと、譲れないものの線引きは、譲って後悔するか、譲っても後悔しないか、「後悔」をキーワードに考えたら良い。

◎身体をコントロールすることで、気持ちもコントロール出来る。人は、体調が悪いとイライラしやすくなる。不要にイライラしないために、肉体的な健康に気をつけることも大切なポイント。

◎自分や相手が機嫌が良くなるパターンを見つけて、うまくいっていることを増やす。

◎べきの違いが私たちをイライラさせる。だれが正解で誰が不正解ということではない。お互いに違うということを認識する。

◎相手のことを理解はするけど、同意はしない、スルー力を身につける。スルー力が高くないと、相手が怒っていることにいちいち引っかかり、つられてこちらも機嫌が悪くなる。スルー力を高めると、人に対する許容度が上がり、自分の価値観と同時に他の人の価値観も尊重することができるようになる。

◎イライラ、怒りの感情は伝染するので、近くにイライラしている人がいて、自分もイライラしそうになったら、時にはその場から離れることも必要。

◎怒りの矛先を探し、はけ口を見つけないと、怒りを発散できないわけではない。矛先を、他人、自分、物などに向けなくても、怒りと上手に付き合うことができるようになればよい。

◎叱る目的は、相手に罪悪感を与えることではない。相手に「なるほど、次からそうすればいいんだ」と納得してもらうこと。「私は」を主語とする方法で、相手を責めずに自分の伝えたいことを伝えられる。


自分で出来る認知療法

DV・モラハラの影響もあり、自分は認知が歪んでいるのかもしれないとなんとなく思っていた。認知が歪んでいない人などいないのでは?とも思っていた。
それで、自分で実践できるという認知療法の本を読んでみた。色んなワークがついていたけれど、結局ワークは面倒だったので、実施せずに終わっている。でも、一応は読み終えた。
要するに、広い視野と多角的な視点を持ったら良いのかな、と思った。
ちょうど同時並行的に読んでいたのが東田直樹著『跳びはねる思考』。自閉症の当事者のエッセイだ。大きく視野が広がり、視点が増えたと思う。
エッセイを読むのは、認知が偏らないようにすることに有効な気がする。
でも、私の好んで読んでいる(いた)のは、
高田宏 
等々
あれ、著者を選ぶ時点で偏っているのかもしれないな。まぁ、いいや。もっと様々な人のエッセイを読んでみよう。ブログも良いのか
もな。
話は戻り、『跳びはねる思考』は、何度か読み返したいくらい良い本でした。

だからモラ問題は難しい。

辛いとき、苦しいときに、それをわかって欲しい、受け止めて欲しいという気持ちは、きっと多くの人にあると思う。それをわかってもらえなかった時に、怒りや悲しみになる場合が多い。夫婦間の不和や、親子間の虐待など、近しい相手という甘えがある分、その感情の程度は強くなると思う。

二者のうち、一方に余裕がある時は、相手の気持ちに寄り添うように努めることができる。でも、余裕が無い場合は、私だってしんどいのに、という気持ちが出てくることがある。それが、赤ちゃんと母親だった場合、母親は、常に寄り添う役割を求められる。それが、要介護者(高齢の親や障害者など)とその子や親であった場合、やはり常に介護や看護の役割が求められる側は決まっている。

さて、このブログのテーマにしているモラ夫は、自分に寄り添うキャパシティはないけれど、受け止めて欲しいという気持ちが特に大きいという特性を持っている。寄り添う役割を求められた側は、主観的に相手の状態を想像し、自分の状態と比較し、自分が我慢をすべきと自分に言い聞かせる。身体的、精神的なものを含めた総合的なしんどさは、客観的に数値化できるものではない。母親だから、妻だから、主婦だから、若いから等の役割がもつイメージも手伝って、寄り添う側が、その苦しさを口にするのは見苦しいことや甘えのように思われる場合がある。

口には出せない不平等感を同じ立場の人と共有できれば、少しはガス抜きになるけれど、それが蓄積されると、いつか爆発する。

だからこそ、子育て支援や、高齢者福祉、障害者福祉のような外部サービスの存在や、その利用が不可欠になる。児童・障害者・高齢者を受け止める福祉制度が十分機能しているかどうかは別として、あるにはある。

しかし、モラ夫を受け入れる福祉サービスはない。飲み屋のママさん?には、モラ夫は良い顔をするだろう。モラ夫の実母?にも、モラ夫は妻にみせるのとは別の顔をみせるだろう。精神科医?のところになんて、モラ夫は進んで行くはずがない。

だから、モラ問題は難しい。

小1の生活

娘は小学生になりました。「小1の壁」なんて言われているので、どんなことになるのだろう、と恐れていましたが、なんとかやってます。

現在、娘は夏休み中ですが、夏休みの方が忙しいです。

というのも、毎日の学童のお弁当作り、朝顔の水やり含む夏休みの宿題をきちんとさせなければならないというミッションがあるからです。

保育園と小学校と、どちらが忙しいかといえば、やっぱり小学校の方が、親も子どもも忙しいです。

毎日持っていかなければならないものが多岐にわたり、小1の場合は親が監督しなければならないことも多いです。

小学校で必要なものプラス学童で必要なもので、娘の荷物は結構な量になり、かなり重く、持たせるのが可哀想になり、たまに手伝ってあげたくなるほどです。

私が小学校の頃は、水筒なんて持っていかなくても学校で水分をとれていたのに、娘は毎日大きな水筒を持って学校に行きます。

音読の宿題も毎日はなかったような。

防犯ブザーをぶらさげて学校に行くのも当たり前。

ランドセルも、さまざまなデザインがあり、そもそも、ランドセルで学校にいかなくても良かったり。

などと、今の小学生の生活をふむふむと思いながら知るのは楽しいことではあります。

この間は、給食当番のエプロンのゴム替えを依頼され、驚きました。こんなことも保護者の仕事だったんだなぁ、と、思いました。

映画「子ども食堂」を観て

映画はそもそもがフィクションだ。だから、フィクションだなぁ、などと、ことさら感じながら観ることはない。

でも、この映画は、フィクションだなぁ、と思いながら観た。それは、この映画に描かれている子どもの貧困を、私がこの目でみて知っているからだ。

タイトルとなっている「子ども食堂」は、もう5年以上前に一時期ニュースを賑わせていた。時を同じくして、私はひとり親になり、子どもの貧困を自分のこととして受け止め、社会福祉士を目指した。その後、ソーシャルワーカーとして働くことが出来たに関わらず、その仕事は重すぎて、辞めることになった。

辞めてしばらく、意識的にではないけれど、この問題を避けてきた気がする。

この映画の存在は知らなかったし、観ようと思って観た映画という訳でもない。

たまたま、ひとりの時間が出来て、都合よく観ることが出来る場所と時間帯にこの映画があった。気が進まなかった。なぜなら、子ども食堂は、様々見学してるし、取材を受けて発言したこともある。私にとって目新しいテーマではなかったから。

観始めてからも、少し後悔した。なぜなら、観るのが苦しかったから。

この映画は、子どもの貧困についてはもちろんだが、子どもの大人を信頼できない、という気持ちをよく表現していた。大人を信頼できない気持ちを思い出した。この映画は、信頼できる大人もいることを伝えたかったのだろうとは思う。

でも、私は、大人になった今でも大人を信頼できていない。信頼できる人もいることはわかっているけれど、誰を信じて良いのか、わからない。信頼される大人になりたくて、ソーシャルワーカーを目指したのに、挫折した。

色んな気持ちが蘇り、涙が止まらなかった。

今、渦中にある人にはオススメしない映画だ。

だけど、この映画に出てくる食堂の夫婦のように安定している人たちに、是非観て欲しい。そのために、フィクションっぽさをあえて加えて豪華キャストで制作された映画なのだろうと思う。

公式サイト

https://kodomoshokudo.pal-ep.com/

予告編

https://m.youtube.com/watch?v=dOm-gPPx1is

特定就職困難者として感じること

特定求職者雇用開発助成金というものがある。


特定求職者雇用開発助成金について

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/kyufukin/tokutei_konnan.html

前から、この制度について疑問に思っていた。記事に書こうと思いつつ書くことができていなかったけれど、この度、特定求職者雇用開発助成金(特定就職困難者コース)申請書にサインをすることになり、思い出したので書きます。

職場は、私を雇い、母子家庭の母等で、これを申請して、年間50〜60万円のお金を受け取っているようだ。営利を目的としている職場でもないので、財政が厳しいのはわかる。申請した職場に対する疑問より、この制度に対する疑問の方が大きい。

特定就職困難者とされているのは、高年齢者、障害者、母子家庭の母等である。たしかに、皆就職が困難である。それは、間違いない。でも、自分のことを特定就職困難者と認めるような書類にサインするのは、気持ちの良いものではない。きっと、高齢者も、障害者も同じように感じると思う。就職が困難なのは、その人の能力のせいではない。それなのに、これらの人を雇って〈あげて〉いる企業に助成金がおりて、おそらく、それほど本人には還元されていない。この制度は、誰のためのものなのか。就職困難者と書類に明記する厚生労働省のデリカシーの無さにも、がっかりする。働きたい母子家庭の母や高齢者、障害者の就職を困難にしているものは、何かを考えるつもりは無いのか、と思う。

古い本や映画/親友と久々に会った話

古い本や映画が、好きです。5年前、10年前、50年前、100年前、もっと前の本や映画も。
それは、自分が生きた時代ならその時代の空気感を思い出すことが出来るからです。生まれる前の時代なら、その時代の空気感を想像できるからです。 で、そんなに古くもないのですが、2008年に発行された本雨宮処凛の闘争ダイアリー』を読みました。
格差社会とか、派遣労働者とか、プレカリアートとか、そんな言葉がよく聞かれていた時代の本です。当時、私が書いていた別のブログの記事にも、プレカリアートという用語を出しており、意識していたことがわかります。
雨宮処凛の闘争ダイアリー』は、ブックガイド的な要素もあり、興味を持った本を5冊ほどAmazonで注文しました。
本の中で紹介されていたナオミ・クライン『ブランドなんか、いらない』の引用も、私の当時の怒りを思い出させるものでした。そして、社会の状況はさほど当時から変わっていないばかりか、悪化しているような気さえします。
この怒りは個人の怒りを超える。たとえ自分が運良く仕事を見つけ、一度もレイオフされなかったとしても、誰もが今の状況をよく知っている。子供や親、友人が不幸な立場に追いやられているからだ。
道ばたで寝ている人は、私たちの時代のもっとと力強い経済イメージだった。これは、集団の意識に焼きつけられた、悪びれもせず人間より利益を優先する経済のメタファーである。このメッセージを、90年代前半の不況時に就業年齢に達した人々は確実に受け取った。ナオミ・クライン著『ブランドなんか、いらない』
先日、久々に遠方に住む高校時代の親友と会う機会がありました。長年正社員として働いてきた、仕事の出来る彼女ですが、話すと転職を考えているとのことでした。自分たちと同世代、氷河期世代の力になれるような仕事をしたい、とのこと。まさに、上の引用文を地で行く感性を保っていたことに、感動しました!さすが、我が親友☆

 

雨宮処凛の闘争ダイアリー

雨宮処凛の闘争ダイアリー

 

 

 

ブランドなんか、いらない―搾取で巨大化する大企業の非情

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