Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

家族写真

私の手元に、いとこの結婚式の集合写真がある。私の離婚前、元夫との同居時代、関係がどんどん悪化し、一緒に過ごす時間が苦痛でたまらなかった頃、いとこの結婚式のために、娘と2人だけで新幹線に乗り東京に行った。6年前のこと。自分のことで精一杯だったけれど、いとこを祝福したかった。いとこの相手方の親族と私たち親族で一緒に写っている写真は、皆笑っている。

その後、いとこは離婚したので、相手方の親族とは、今後会うことはないだろう。そして、そこに写っている私の母の再婚相手と母も別れた。やはり、もう会うことはないのだろう。

この写真を処分したら良いのかどうか迷う。娘も写っているが、彼女の人生の一ページとして残してあげるべきなのか。

私自身は、笑っていて、少しキレイに写っているけれど、私自身の人生の一ページとしても、記憶や記録として留めておくべきなのか。

私と元夫と娘と、3人で写っている写真は記憶している限り、ワンショットしかない。娘を命名した時。生まれた時から関係が悪かったので、3人で写真を撮ろうという機会はほぼなかった。

よく、片親や両親ともにいない子どもが、家族皆で写っている写真をみているシーンがドラマや映画には登場するけれど、娘にはそんな3人の思い出を思い出すことはできない。

その3人で写っている家族写真は、服も普段着で、それほどステキなものではない。その写真を撮った時も、夫婦関係は悪かった。娘を愛しているという私と元夫、双方の気持ちがあったので3人での写真が実現した。

その写真は、きっと娘にとって、意味のあるものだろうから、いつ見せることになるかわからないけれど、保存しておく。

冠婚葬祭とは、そういうものなのだろう。複雑な人間関係をさておいて、個人的に、その主役となる人のために、様々な人が集い、演じる。

私たち3人の家族写真は、娘という主役のため、私と元夫、撮影する私の母が、複雑な思いを抱えつつ撮ったものだ。

例えば結婚式は、結婚する2人が主催しているのかもしれないけれど、まわりは、そのイベント参加しているだけという体で呑気に過ごすわけにはいかない。当人たちが望むように多少なりとも演ずる必要がある。新郎の上司として、新婦の恩師として、新郎の親友として、新婦の父として、など、あてがわれた役割を精一杯演じる。意外とハードな仕事だ。その時、個人的な負の感情を決して出してはならない。私も、離婚の危機の最中にありながら、精一杯明るく新婦のいとことして振る舞っていた。

葬儀にしても、例えば、分かれた恋人なり、愛人、愛人の子、犬猿の仲の親族同士など、本来会うことのないもの同士が集まる、ほかに類を見ないイベントだ。そこで打ち解けるきっかけが生まれたり、知りたくもないことを知ってしまったりと、更なるドラマが展開する。しかし、その場では感情をぐっとこらえる必要がある。

そういえば私は、昔の、祖父母の若い頃の結婚式の集合写真なんかをアルバムでみながら、直接的には知らない親戚の昔話を聞くのが好きだった。ドロドロした内容もドラマとして面白がって聞いていた気がする。

と、思うと、娘も、ドライにいとこの結婚式の写真をみながら、エピソードを面白がって聞くのかな、という気になってきたので、一応いとこの結婚式の集合写真は保存するとこととしよう。