読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。シングルママもパパも生きやすい日本になる日を願いつつ、今シングルママ として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

フェミニストとしての高村光太郎②

フェミニストとしての高村光太郎①の補足である。実際、光太郎の書いたものには、フェミニストを感じさせるものが非常に多い。智恵子の死後、戦争礼賛者になってしまった光太郎(後に反省しているが)なので、私自身、国語の教科書などでもきちんと触れた記憶が無いのだけれど、改めて光太郎の作品に興味が出てきた。

智恵子の郷里で縁談がおこった時に光太郎は「人に(いやなんです)」という詩を書いている。光太郎はここで女が嫁にゆくということの本質を「その身を売るんです」と言い切り、「一人の世界をすてること」であり、「男に無意味に負けること」、「男のこころのままになること」「何という醜悪事としている。

人に(いやなんです)

いやなんです
あなたのいつてしまふのがー

花よりさきに実のなるような
種子よりさきに芽の出るやうな
夏から春のすぐ来るやうな
そんな理屈に合はない不自然を
どうかしないでゐて下さい
型のやうな旦那さまと
まるい字をかくそのあなたと
かう考へてさへなぜか私は泣かれます
小鳥のやうに臆病で
太陽のやうにわがままな
あなたがお嫁にゆくなんて

いやなんです
あなたのいつてしまうふのが

なぜさうたやすく
さあ何といひませうーまあ言はば
その身を売る気になれるんでせう
あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何という醜悪事でせう
まるでさう
チシアンの画いた絵が
鶴巻町へ買物に出るのです
私は淋しい かなしい
何といふ気はないけれど
ちやうどあなたの下すつた
あのグリキシニヤの
大きな花の腐つてゆくのを見る様な
私を棄てて腐つてゆくのを見る様な
空を旅してゆく鳥の
ゆくへをぢつとみてゐる様な
浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない 淋しい 焼けつく様な
ーそれでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます
何がどうとはもとより知らねど

いやんです
あなたのいつてしまふのがー
おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて

なんとなく、親友がお嫁に行く時、嬉しいというより残念に思った自分自身のことを思いだした。それは嫉妬でも恋でもなくて(親友は同性でもあったし)、何とも言い表し難い複雑な感情で、自分自身が入籍する時もまた、姓を変更する時もまた同じような残念な気持ちであったことを思い出す。同様に感じたという既婚者の友人も私にはいる。

そんなどちらかというとフェミニスト的だった自分がなぜDV被害者になったのだろうと考えた時、フェミニスト的であったからこそDVに気付くことができたのではないかとも思った。

 

光太郎は、大正13年2月、「婦人之友」に以下のような文章も書いている。

どんな人でもせめて家庭の中では自由で、自然で、赤裸で、お互に言ひたい事を言ひ合って、お互に為たい事を為合って、それで少しもお互の心を傷つけ合はないのみか、その故に却つてお互の魂を育て合ふ様な生活を為たいものと思ふ。それはお互に人間の底の底にある自然を信じ合ふ事から始めるでせう。

信無き家庭と愛無き家庭とは人間生活の中で最も残酷な牢屋であるに違ひない、信ずる事、愛する事の幸福さは、家庭に於いて一番美しい花となる

長男でありながら両親と同居せず、 智恵子を嫁の座から救って、二人きりの城を築いた光太郎、智恵子を主婦の席に閉じ込めなかった光太郎。こんな風に思える男もいるのかと思うと、まだまだ希望は捨てずにおきたい。

高村光太郎のフェミニズム (朝日文庫)

高村光太郎のフェミニズム (朝日文庫)