Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

映画『月』の施設の描写から感じた恐怖について

映画『月』の批評の中に、描写がホラー映画のようであり、観客を恐怖させ、障害者の差別を助長することにつながるのではないか、という主旨のものがあった。

 

映画を実際に観た感想。確かに、観客としての私は恐怖を覚えた。その恐怖は何だったのかを考えてみたいと思う。

 

ー私の施設訪問経験から思うことー

 

私は、障がい福祉含めた福祉分野で通算7年働き、県をまたがり、『月』の施設のような山奥の施設を複数箇所訪問した経験がある。はじめてそのような施設を訪問した時、おそらく堂島洋子(宮沢りえ)が感じた恐怖と同種の恐怖を感じた。私の率直な感想は、「このような施設に自分は入れられたくないし、このような施設に家族を入れなくない。このような施設で働きたくもない」である。

仕事でそれら施設の職員さんとやりとりをしていた私は、職員の方々それぞれが思いを持って一生懸命仕事をしていることを知っていた。虐待などもしていないようにみえた。それでも、そこで仕事をしている人には失礼な話だと思いつつも、私はその施設に入りたくないと思った

 

私は1日数本しかないバスと徒歩でそれらの施設を訪れたので、森の暗さ、虫や蛇の恐怖もリアルで味わっている。『月』には確かにホラー映画のように感じる描写は多かったけれど、それをリアルで感じたものとして、この映画の描写が誇張と言い切れないと思った。

 

「見たくない人は見ない」という言葉は、「見ようと思えば見ることができる」という選択肢もあるということだと思うけれど、そんな選択肢もなく、それらの施設は、そしてそこに入所している方々は隠された存在だったと思う。私自身も、仕事で行かなければ、たとえ「見る機会があったら見たい」と思っていたとしても、そのような施設を訪れることはなかったと思う。社会科見学のような感じに行ける場所ではない。同じ福祉施設の職員であったとしても、そのような施設の存在を知らない人は多いのではないかと思う。

 

ー建築物の状態とそれを利用する人との相互作用についてー

 

福祉に予算が割かれないため、福祉施設の建物が老朽化していたり、福祉職場で働く職員の待遇が低いため、現場が人手不足となり、疲弊している職員が多いという怖さもあると思う。

 

例えば、私の娘が通っている公立の小学校は、老朽化しており無機質な作りだ。しかし、そこは子どもたちの活気に満ち溢れていることによって、ホラーではなくなる。夜の学校が怖いのは、生気が感じられないからだろう。

 

「建築物の状態(立地・デザイン)✖️そこを利用する人の様子」の相互的な作用で、その施設の恐怖度は変わってくるのかもしれない、と思う。

 

たとえば、刑務所や特別養護老人ホーム、病院などほかの施設に置き換えて考えても、そこにいる人に希望や生きるエネルギーがあれば怖い場所ではなくなると思う。疲弊した顔の職員ばかりであったり力を奪われた人ばかりが住んでいたとしたら、ホラーになると思う。

 

ー実際のニュース報道等をみて思うことー

 

私が山奥の施設で接した職員さんは、少なくとも私が知る限りは、思いを持って利用者の方々と接していた。もちろん、裏の顔もあるだろうが、明るく努め、入所者の方の生活の質を向上させようとしていた。

 

しかし、実際のニュースをみると、福祉施設や医療施設等における虐待事例がたくさんある。施設内の虐待は、ありえ無いものではない。

もちろん、福祉施設で働く職員の理想として、虐待はあり得ない。自分は絶対にしたくないし、見たら通報するべきだと思う。

しかし、そこにパワハラや非正規雇用による貧困等の問題が絡むと、理想ばかり言っていられない状況にもなるのではないだろうかと、思う。※『月』の非正規雇用問題についても別記事に書きたい。

 

ー恐怖の本質は何かー

 

人はホラー映画を観る時、どこに恐怖を覚えるのだろうか。例えば、暴力により誰かが苦しめられる残虐なシーンや、お化けが出てきたりするシーン。そこで怖いのは暴力を受けている人やお化けそのものなのだろうか。暴力的な存在や、お化けがお化けにならざるを得なかった経緯、を恐ろしいと私は感じる。

 

いじめやパワハラで自殺した人、無差別に殺された人、冤罪で死刑になった人、被害者となったその人たちが怖いのではない。それらの人を死に追いやった存在が怖い。残酷な拷問で殺される人を観る時、その痛みを想像し、自分はそうなりたくないと思う。肉体的、精神的にそのような痛みを他人に加える権利もないのに、そのようなことができる存在に対する恐れが私の恐怖心の本質だと思う。

 

たとえば貧困や差別、暴力、都合の悪いものを無かったことにしたり、見ないようにするという社会の空気は日常的に感じている。

 

本当に怖いのは、このような状態が自らにとって都合の良いものであるため、それで良しとしている具体的な形としてはみえない存在だ。目には見えない悪意や欲望の集合体、そのパワーに追従する人々、パワーに抗えない人々、そしてそこに自分自身も飲み込まれつつあるかもしれないという恐れ。これは、堂島洋子(宮沢りえ)の葛藤でもあったのではないか、と思う。

 

ー『月』の描写は障がい者への差別を助長するものなのかー

 

そもそもこれは原作の小説がある映画であり、実際の事件から着想を得たフィクションだ。事実に含まれる要素をデフォルメすることは不自然なことではない。映画は多かれ少なかれ、現実ではない部分がある。手法として、誇張表現を使う場合もあると思う。

 

しかし、現場を知る私は、この映画の描写があり得ないことだと思わず、自身の経験と照らし合わせて現実でもあると思った。もちろん、このような施設だけではなく、地域に開かれ、虐待が無いようにみえる施設の存在も知っている。

 

障がい福祉施設がどのようなところか、障がい者がどのような人か知らない人だったら、はじめてみる映画等からの影響を大きく受けるかもしれない。しかし、メディアの情報も溢れる中、映画に描かれていることのみを現実のものと認識するような人がこの映画の客層の中にどれだけいるだろう、と思う。

 

この映画は差別を助長するようなものではないと私は思った。

格安物件と匂い

ポン・ジュノ監督の韓国映画、『パラサイト 半地下の家族』を観た。

豪邸に住む富裕層の一家と、半地下の住人である一家の格差が描かれた映画だ。

能力的には、もしかしたら半地下の住人と富裕層の一家はそれほど変わりないのではないかと思う。半地下の一家は、急に与えられた、運転手、家庭教師、家政婦などの役割を、器用にこなすが、そうそう簡単にできることではないと思う。半地下の住人にあまりに簡単に騙される富裕層の一家の方が愚かに見える。

半地下の住人と富裕層一家の住人の決定的な違いは、匂いだ。

これは、格安物件を移り住んできた私にはすごくよくわかる。私は、半地下の匂いを発していたかもしれないし、もしかしたら今現在も発しているかもしれない。

日本に、韓国のような半地下の文化はないけれど、低所得者の放つ匂いは国を超えて似たようなものかもしれない。

日本で格安物件を借りると、例えば風呂無し、ベランダなし、日当たりが悪かったり、窓が少なく風通しの悪いワンルームを借りるパターンとなる。キッチンと居住スペースを隔てる扉がなければ、食べ物の匂いがカーテンやカーペットなどに毎日染み込む。洗濯物を干すことができるベランダはなく、当然場所をとり高価な乾燥機付き洗濯機をおけるわけもなく、洗濯物を室内に干す。部屋は湿度が高まり、生乾きの洗濯物は異臭を放つ。除湿機を置けるスペースもなく、、、。

本人が怠惰であるとか、不潔であるとかではなく、お金が無いという環境が否応なしに匂いをつける。

隙間のある家で、いくら清潔を保とうと心がけてもゴキブリなどの虫も入り込む。格安物件には洗面所などないので、キッチンは洗面所も兼ねる。

私が格安物件に住んでいた頃、私は毎日スーツを着て、ビジネスマナーなどを教える立場にあった。その私のスーツに染み込んだ匂いに、消臭剤をかけてはいたが、おそらく富裕層の上司は気付いていたかもしれない。幸いそのことで、いじめられることはなかった。もしそのことを言われたら、相当に傷ついたと思う。

 

『グエムル-漢江の怪物-』を観て

ポン・ジュノ監督の韓国映画、『グエムル-漢江の怪物-』を観た。韓国版ゴジラといった作品だ。

怪物グエムルはあまり怖くなかったのでホラー映画が苦手な私もきちんと最後まで観ることができた。グエムルがあまり怖くなかったということと対照的に、怪物ではなく主人公一家以外の人間が怖かった。

主人公のカンドゥの話をまわりが信じてきちんと動いていたら、もしかしたらカンドゥの父やヒョンソは死ななくて済んだかもしれない。

まわりが自分の話を信じてくれない、話がきたんと通じない、自分にとって恐ろしいことが待ち受けているとわかっているのに誰も何もしてくれない、という恐ろしさは私も味わったことがある。そんな時の人間が怪物以上に恐ろしく思えることも経験している。

自分が動くしかないのだ。カンドゥ一家はヒョンソを救うために勇敢すぎるほどに闘った。

と思うと、何かを必死に訴えている人がいたら、自分には違うものが見えていたとしても、その人の真実を受け止めることがとても大切だと改めて思う。

認知症の人、障がい者、子ども、文化の違う人たち等、その人たちが不吉な予兆を鈍感な私より早く受け止めている可能性は十分にある。

用事のない連絡

先日嬉しいことがあった。

以前の職場の上司から元気にしているかと電話があったのだ。3年ぶりくらいに。

元気かどうかの確認がその電話の用事といえば用事だった。

自分が忘れられていなかったことをとても嬉しく感じる。こちらとしても、その上司のことは時々元気かなぁ、と思い出しているのだけれど、突然電話をするのは気がひけてしまいなかなか出来なかった。

「あなたのことを思い出して元気かな、って思って」と電話を出来るような上司の爽やかなキャラクターは、私には無いものなので魅力的だ。

電話をもらってとても嬉しかったことを素直に上司に伝えた。

「用事がなければ連絡できない」から、「用事がなくても連絡できる」関係性をつくるのは結構難しい。

社会人になると、例えば子育てをしている相手、仕事が忙しそうな相手には、用事がなければ連絡ができない。連絡したところで時間をとってもらえないだろうと勝手に自分が思い込んでいる。

上司が電話をかけてくれた時、私はたまたま電車の中でもなく、風呂に入っていたりもしなかったので、その上司のふとした素敵な思いつきをきっかけに話を弾ませることができた。電話は難しいけれど、私も気になっている人に手紙でも書こうと思う。

場所と記憶

20年ぶりに戻り住んだ田舎では、私が子どもだった頃の30年前と変わらぬ風景、公園、小学校、好きだった店や建物の姿に安心した。人の姿は大きく変わっても、風景、建物はあまり変わっていなかった。

とはいえ、建物はもう建て直しの時期にきている。私がここを来年離れ、次に戻ってきた時、たぶん、それらの多くはなくなっているか別の姿になっていると思う。そのことを想像するだけで、少し淋しくなる。

小さい頃、祖母と一緒に行った病院の建物も、今取り壊されている。その建物をみることで思い出していた記憶が薄れていくようだ。祖父母と一緒に行った喫茶店、そこでのエピソードは、その喫茶店を見ると思い出す。小さい頃通った文房具屋さんでの店主とのやりとりは、その文房具屋さんの建物を見ると思い出す。建物は無くなっていても、昔ここに本屋さんがあったなぁ、とその場所を通ると思い出すこともある。

場所や建物は、多くの記憶を呼び覚ます。

記憶は良いものばかりとは限らない。私が、幼い頃、交通事故に遭った場所を、毎日通勤途中に通る。最悪な関係に発展した人と仲の良かった時に通った店の前を通ることもある。

交通事故に遭った場所を通るのは、嫌ではない。私自身の傷は癒やされた。その後、家族がしっかりケアしてくれたからだ。今は、

私の飛び出しにより、私を轢いてしまった運転手さんに申し訳ないという気持ちだけは、その場所を通る度に感じている。嫌な記憶を呼び覚ます場所を通りたくないのは、その傷がまだ癒えていないからなのだと思う。自分なりに後始末をする。そして、嫌な記憶であったとしても、忘れないことも必要だと、空襲の碑をみて思うこともある。

私が運転しない理由4-どうやらHSPであるようだから。

運転をしようと思ってもどうしても出来ないことについて悩み、HSPは運転が苦手という情報にたどり着いた。

車の運転を練習すると、色んなことが気になって身体は強張り、汗をかいた。きっと、経験者ならほぼあり得ないことと思える事柄だと思うのなろうけれど、こんなことを考える。

・今車で横を通り過ぎようとしている自転車の高校生が急に車道の方に出てきたらどうしよう。

・アクセルとブレーキを間違って踏んだらどうしよう。

・停車している車のドアが突然開き、人が車道側に降りてきたらどうしよう。

・前のバイクの人が転倒したらどうしよう。

・私の車線変更に気付かず後ろから来た車がスピードを落としてくれなかったらどうしよう。

・私が停車しようとしていることを後ろの車の人が気付いていなかったらどうしよう。

・死角から急に自転車や歩行者が現れたらどうしよう。

・暗闇の中、暗い服の人がよく見えたていなかったらどうしよう。

自分に対する信頼や自信もないし、他人に対する信頼も持てていない感じだ。

そこで、自分をHSPだと疑い本を読んでみた。ほぼ自分に当てはまる内容だった。

幼い頃からロングスリーパーであることも、この気質に関係しているのだと思う。

温泉でのこと(高齢者福祉について考える)

週末近くの温泉に通うのが楽しみで、そのために平日を過ごしているような気にさえなる。温泉が近くだと、少し歩いて帰って寝るだけなので、とても気楽で開放感に浸れる。自宅と温泉が近いことはすごく贅沢なことだと思う。

買い物するスーパーより大きなお風呂が近くにある方が嬉しいと思う価値観になった現在だ。

そんな大好きな温泉では、様々な人をみる。家族で来ている人の関係性をみるのもひとつの楽しみだ。仲の良い家族をみると気持ちが和む。

基本は楽しい温泉で、日々のストレスから解放され、リフレッシュできる場所なのであるが、昨日はとても悲しい気持ちになった。

90歳近くと思われる高齢女性がその娘と思われる70歳くらいの女性に、きつく言われ続ける姿を目にしたのだ。おそらく親子だろう。「どうして⚪︎⚪︎なんですか!」「⚪︎⚪︎はやったの?やって」「なにやってるの?」お母さんと思われる女性は悲しそうに、何も答えず言われるままになっていた。公共の場でもそんな感じなら家ではもっとひどいかもしれない。

こんな時出来ることがないことがとても辛い。一時的に関わり、娘にひと言言ったとしても、かえって悪い状況を招く危険もある。「あなたがちゃんとしないせいで、私が注意しなければならなったのに、私が悪者になった」とさらに90歳くらいの高齢女性がなじられる危険がある。

家族や高齢者問題について考える。険悪な関係性なのに一緒に暮らさなければならない経済状況などもあるのだろう。娘は家族介護で疲れ果てているのかもしれない(しかし、その母と思われる高齢女性は、温泉に来て、ひとりで着替えられるほどしっかりしていたから、その可能性は低い)。

離婚したいけれど経済ゆえに家族でいる、という夫婦もかなりの数に上る。家族介護前提の高齢者福祉。

夫婦もどちらかが先に死ぬし、子どものいない夫婦もいるし、最初から結婚せず独身を通してきた人もいる。家族だからと言って良い関係であるとも限らない。

一人暮らしの高齢者が、肩身の狭い思いをせず福祉を受けられる基盤を整えることが、関係のよくない家族と同居しないという選択肢を高齢者に与え、家族による虐待を防ぐ一歩になると思う。