Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

家族介護を考える

ルポ 介護独身 (新潮新書)

ルポ 介護独身 (新潮新書)

4日、厚生労働省が、病気や障害などのある家族の介護をする18歳未満の子ども「ヤングケアラー」に関し、全国の教育現場を対象にした初の実態調査を12月にも始める方針を固めたようだ。

私よりずっと若くても家族の介護に追われている人が少なくない。

山村基殻著『ルポ 介護独身』を読む。


私は社会福祉士資格を取得後、高齢・障害・児童・更生保護など様々な福祉職の道を選べたが、児童を選んだ。その後、今は障害福祉の仕事をしている。高齢分野に気が進まなかった理由はまさにこの本にも書かれていた以下の言葉通りのものだった。

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高齢者の介護の先には、望むと望まざるとにかかわらず、「死」がぶら下がっている。それは否応もなく目に飛び込んでくる。おまけに、その「死」は、まるで介護者をからかうように、ぶらりぶらりと揺れてみせたり、顔を撫でてみせたりする。その都度、介護者は怖気をふるわせ、あるいは怒気をあらわにする。

乳幼児には、少なくとも「見かけ」は輝くばかりの未来が広がっている。「這い這い」から「立ち」、そして「歩く」過程は、生き物としての成長を感じさせるのだから、見守る側はやる気が出るだろう。

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今、障害福祉の仕事をしている中で、もし私がこのご利用者と家族であったら虐待にいたらずに済むだろうか、と考えることがよくある。介護は、肉体的にも精神的にも、大変な仕事だ。仕事だからと割り切れるから、チームで仕事をしているから、四六時中一緒にいるわけではないから、何とかケアを出来ているのではないかと思う。


身体・知的・精神障害の方の家族と話す機会は多いと思う。自分ならとても耐えられないのではないかと思うような毎日を送っている家族も多い。高齢と障害も完全に切り分けることは到底出来ない。障害者も高齢者になる。認知症精神疾患として認定される。


障害福祉の職場だから、私の職場は平均的な職場以上に困難な状況にある人に理解があるはずだと思うのだけれど、私の目から見る限り、現在独身介護をしている職員に寛容とはあまり思えない。彼ら彼女らは、肩身が狭そうにみえる。


娘との愛着形成について

発達障害と呼ばないで (幻冬舎新書)

発達障害と呼ばないで (幻冬舎新書)

岡田尊司著『発達障害と呼ばないで』を読んだ。

この本には、愛着障害についても書かれており、自分自身の娘との関わりを振り返りつつ読んだ。

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発達障害愛着障害の症状が似ていて、ときには、専門家でも見分けられないのには理由がある。一つには、発達が愛着を土台として生じるため、愛着形成が不安定だと、結局、発達も損なわれやすいということもあるが、実はもっと根本的な原因がある。意外なことに、発達障害愛着障害は、その基盤となる生物学的メカニズムが少なからず共通しているのである。(中略)では、共通する生物学的基盤とは何だろうか。そこには、いくつかの仕組みが関わっているが、中でも、子育てに特に深く関わっているのがオキシトシンバソプレシン・システム(以下、簡単にオキシトシン・システム)である。愛着障害は、このオキシトシン・システムの機能不全だといえるが、オキシトシン・システムは社会性や攻撃性、不安のコントロールなどに極めて重要な役割を果たしている。さらに近年、オキシトシン・システムの異常は、不安障害やうつ、摂食障害や依存症などのリスクを高めるだけでなく、実は発達障害の原因となり得ることもわかってきた。

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私は、娘の妊娠中から娘の父親と不和であり出産後も継続して精神的に不安定だった。そのことで、やはり娘と関わり不足だったのだろうと改めて思う。娘は愛着障害と言えるかもしれない。

私は、娘を妊娠後、保育士の勉強を始めたので、愛着の重要性について知識として知っており、関わり不足にならないようにと思って接してきた。

でも実際は、こんなことでは娘に良くない思いながらも、夫とのことに気を取られていたり、将来の不安のために鬱っぽくなっていたと思う。

そして、娘が1歳になる前に働き始め、娘を託児施設に預けた。時には3つの仕事をかけもったり、帰宅が深夜に及んでいたので、物理的に娘と接する時間も短かった。

生活のため仕事優先の日々が続き、娘が年長になり、今の仕事に転職してはじめて、娘と関わる時間が少し確保されたと思っている。

さて、今からできることは何か。リフレクティブ・ファンクションを高めるという方法があるようだ。

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相手の気持ちを理解する能力が弱い人では、自分を顧みる能力も弱い傾向がみられる。両者は結びついた能力であり、リフレクティブ・ファンクション(reflective function)と呼ばれる。このリフレクティブ・ファンクションを高めることが、安定した愛着を育む上でも、不安定な愛着スタイルの人がそれを克服する上でも、鍵を握るとされる。

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リフレクティブ・ファンクションを高めるためには、相手の言うことに耳を傾け、相手がしていることに関心を向ける、相手を受け止め、肯定し、関心や気持ちを共有する、表面に表れた行動ではなく、その背後にある心に関心を向け、そちらを重視する等の姿勢が大切らしい。

そして、自分を振り返る習慣をつけることも同じく重要なようだ。何か問題が起きたとき、期待はずれなことがあったとき、それを客観的に振り返って、何が問題だったのかを考える。記録や日誌をつけ、あった出来事とともに、自分の対応の仕方を振り返ることも有効とのことだ。自分を振り返る習慣を身につけていきたい。

愛着形成に重要な乳幼児期に、娘と関わり不足になってしまったことの理由は、夫との不和による離婚問題が大きいと考えているが、もっと遡ると結婚前に妊娠したことが大きいと思う。それは、自分自身にも大きな責任があると思っている。

私が30歳を目前に、結婚や子作りについて焦っていたということは自分でもはっきり記憶している。

段階をふんで、しっかり準備してからだったらよかった、と思う。

その一方で、そんなことがなければ、やっぱり結婚もしておらず、今も子どもがいなかったのではないかな、とも思う。

エレン・ケイ

エレン・ケイ(1849ー1926)はスウェーデンの裕福な家庭に生まれ、教師として児童の教育に携わる一方、女性解放運動にも参加し、1900年『児童の世紀』、1903-06年『生命線』を発表、児童権利の擁護者として知られる。その思想は平塚らいてうにも影響を与えた。

『児童の世紀』の中で、ケイは「子どものその親を選ぶ権利」を主張した。『生命線』では、恋愛と結婚の崇高性を訴え私生児に対する差別を招くものと結婚制度のゆがみを告発。社会進出を果たした女性たちを家庭に戻すための具体的な母性保護制作を提案する。ケイは、母の使命に社会的経済的評価を与えようとした。つまり母の職能は社会的にも、国家にとっても重要な財産であるという評価に基づき、子どもが養護を必要とする期間、補助金を支給することによって、家庭外労働を回避させるという提案である。これは、それまで妻が無償で提供してきた育児や家事労働が「金銭的に評価される」ということで、妻が家庭にいながら夫からの経済的自立を果たすということを意味するものだった。

ケイは恋愛を至上としていたが、それゆえに愛の無い結婚よりも恋愛による同棲生活を推奨し、愛情がなくなった場合の離婚については肯定していたという。

日本にもらいてうや山田わか等による紹介で、広く知られるようになったケイの思想は、1918年に始まった母性保護論争で、より多くの女性の目にとまるようになり、1937年の母子保護法につながる。

保育士の勉強の参考にと、書いていた記事です。

追加情報を得られたらまた更新します。

児童文学作家のアストリッド・リンドグレーンも、女優のイングリット・バーグマンスウェーデンの方だけれど、スウェーデン女性は、凛として個を確立しているイメージがあるな。

環境活動家グレタ・トゥーンベリも、スウェーデンの方だ。

サイバースペースと精神分裂病

現代建築・アウシュヴィッツ以後

現代建築・アウシュヴィッツ以後

飯島洋一著『現代建築・アウシュヴィッツ以降』をスパークリングワインをひとりで一本空けながら読んだ。特に面白かったのは、「サイバーの息子」という章だ。サイバースペースの中には精神分裂病的なイメージがあるという話が書かれている

・「サイバースペースでは、人間は自身の深い記憶、潜在的な意識と遭遇することもある」(マーコス・ノヴァク)

・「あなたはかつてのようなアイデンティティを保っていると思ってはならない。もはやあなたは一つの名前、一つの祖国、一つの時間のなかでは暮らしてはいけないのだ。なぜなら、医学的な再現によるにせよ、あるいは何らかの幻想によって引き起こされるにせよ、あなたの分身たちは至るところに出現するようになるだろうから。理想的にして、統計学的にして、皮肉な存在。分裂病者に春来る!」(ニコル・スタンジェル)

サイバースペースの中で人は「流動的な変身のなかで複数の自我のアイデンティティに開花する。いく重もの鎧は脱ぎ棄てられて、より親密な自我をあらわにする」(マーコス・ノヴァク)

・私の消滅。ただ電子のネットワークだけが世界を構成している。魂はその内部を猛烈な速度で移行するだけなのである。またサイバースペースの中では、忘却していた記憶、人間の知性を超えた記憶に遭遇する。もちろん、新しい記憶も次々に蓄積され、記憶はその度に書き替えられたり、修正されるゆえに、それは止まることを知らない生成の場である。言い換えればこの非物質的空間は、生きている。無意識的であり、魔術的、ユートピア的な世界であり、こう言ってよければ各瞬間に再生し、創造し、進化し、持続する宇宙であり、「開かれた」この場所は、精神的な愛の世界を目指す新しい神であるとさえ言えよう。(飯島洋一著『現代建築・アウシュヴィッツ以後』より)


「老い」を意識して


上野千鶴子中村雄二郎の本『〈人間〉を超えて 移動と着地』を読んだ。

上野さんが38歳から40歳までの2年間、当時59歳から61歳歳だった中村さんと交わした往復書簡で、メインテーマは「老い」だ。1989年出版の本ではあるが、特に内容が古いと感じることはなかった。

最近「老い」を意識している私としては、今の自分とほぼ同年代だった上野さんが感じていたことに共感する部分も多くあった。

2008年出版の上野千鶴子著『老いる準備 介護することとされること』も並行して読んだのだが、同じ人が20年前に考えていたことをふまえて読むことの面白さも改めて感じている。

次は、2011年出版、上野千鶴子著『ケアの社会学』を読みたい。

最近、「家族」についても考えているが、「家族」と「老い」と、私の現在の仕事である「障害福祉」やケアに関することは、すべて密接に繋がっている。

『〈人間〉を超えて 移動と着地』にあった、上野さんの考えで面白いと思った言葉をメモしておく。

・家族は〈個〉であることから解放されるから-もしくは少なくともそう錯覚していられるから-みんな「家族」があんなに好きなのでしょう。

ジャン=ジャック・ルソー

ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)は、フランスに啓蒙思想家の一人だ。フランス革命に多大な影響を及ぼし、近代民主主義を芽生えさせるのに貢献した。『社会契約論』で、はじめて「子どもは生きる権利がある」と主張し、その出版の同年、「これはわたしの最後の最上の著作だ」といいきった著作が『エミール』である。

「『エミール』を読みとく」を読み、ルソーは自分の子どもを孤児院に預けていたという面白い事実を知った。彼は33歳の時に、生涯の伴侶テレーズと出会い、彼女との間に5人の子どもをもうけているのだが、その5人ともを貧しさと家庭環境の劣悪さを理由とし、孤児院に預けていたのだ。わが子を孤児院に送るというような苦渋に満ちた選択をしなくて済む社会をつくろうという思いが『エミール』という著作に表れることになる。

わが子を孤児院に送っているルソーは、「子どもを語る資格はない」と批判され、各地で『エミール』も押収・焚書され、ルソー自身にも逮捕状や追放令が出た。しかし、『エミール』はその後、近代学校の創設者ペスタロッチ、幼稚園の創設者フレーベル、保育園の創始者オーウェンなどに影響を与え、近代教育の先人たちを導くことになるのだ。(※ルソー自身は「人間は白紙の状態で生まれ経験によって、人間のありようが決定する」と論じたイギリス経験論哲学の祖ロックに多大な影響を受けている)

もうひとつ、面白かったのは、今日的な男女平等の視点から見ると、『エミール』にはルソーの男女平等についての限界が様々なところに見られる点だ。「女性は…(略)…征服されるように生まれついている」「服従は女性にとって自然の状態」などと書かれている。『人間不平等起源論』を著した人でも男女平等につての考えがそれだけのものだったのか!と正直驚いた。

ほぼ同時代人であるオランプ・ド・グーシュという女性がフランス革命時、人権宣言を批判して『女性の人権宣言』を出していることを考えると、ルソーの考えが至らなかったことを時代のせいにすることも出来ないのではないかと思う。

さらに、手放さなければならない子を5人もテレーズに妊娠させたということも、妊娠による女性の身体の負担を考えると、なんだかなぁ、と現代的な視点からは思ってしまった。

ともあれ、ルソーの言葉で面白いなぁ、と思ったものをメモしておこうと思う。

・万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。

・人は子どもというものを知らない…(略)…かれらは子どものうちに大人をもとめ、大人になるまえに子どもがどういうものであるかを考えない

・人類は万物のうちにその地位をしめている。…(略)…人間を人間として考え、子どもを子どもとして考えなければならない

・自然は子どもが大人になるまえに子どもであることを望んでいる。この順序をひっくりかえそうとすると、成熟してもいない、味わいもない、そしてすぐに腐ってしまう速成の果実を結ばせることになる

・植物は栽培によってつくられ、人間は教育によってつくられる

・この教育は、自然か人間か事物によってあたえられる。…(略)…だからわたしたちはみな、三種類の先生によって教育される。これらの先生のそれぞれの教えが互いに矛盾しているばあいには、弟子は悪い教育をうける。…(略)…それらの教えが一致して同じ目的にむかっているばあいにだけ、弟子はその目標どおりに教育され、一貫した人生を送ることができる。

・教育は生命とともにはじまるのだから、生まれたとき、子どもはすでに弟子なのだ。教師の弟子ではない。自然の弟子だ。教師はただ、自然という主席の先生のもとで研究し、この先生の仕事がじゃまされないようにするだけだ

・肉体を、器官を、感官を、力を訓練させるがいい。しかし、魂はできるだけ長いあいだなにもさせずにおくがいい

・人間としての生活をするように自然は命じている。生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ

・子どもに学問を教えることが問題なのではなく、学問を愛する趣味をあたえ、この趣味がもっと発達したときに学問をまなぶための方法を教えることが問題なのだ。これこそたしかに、あらゆるよい教育の根本原則だ

・人はみな幸福でありたいと思っている。しかし、幸福になれるには、幸福とはどういうことであるかをまず知らなければならない。自然人の幸福はその生活と同様に単純だ。それは苦しまないことにある。それは健康、自由、必要なものから成りたっている

・わたしたちは、いわば、二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。はじめは人間に生まれ、つぎには男性か女性に生まれる

 

「エミール」を読みとく

「エミール」を読みとく

 

 

 

心療内科の受診前

下書き記事を整理していて、心療内科に行くまでの経過があったのでアップします。最近、DVやモラハラのことを書いていないけれど、読み直して、やっぱり今大変な人に何かできることがあれば、という気持ちは残っていることを確認しました。↓

私は、ことあるごとに夫から「頭がおかしい」「言っている意味がわからない」と言われ続けてきました。「精神科に行け」と言われ、実際に診察の予約をされたこともあります。夫の言葉の暴力が積み重なって、本当に心療内科・精神科に行きたい気持ちになりました。しかし、「頭のおかしい人間には親権は渡すことが出来ない」という脅しを受け、病院に行くという事実もまた夫の攻撃材料になるのではないかと恐れて病院には行かないようにしていました。実際、子育てをしながら病院に行く時間的な余裕もありませんでした。

市の無料相談を利用し、臨床心理士さんに話を聞いてもらったとき、「私は病院に行け、と言われ続けているのですが、本当に病院に行った方がよいのでしょうか」と聞いてみたことがあります。「眠れていますか」と聞かれ、「はい、眠れています」と答えると、「では行く必要はないでしょう」と言われました。

本をたくさん読むことでモラルハラスメントのからくりを知り、夫の思うつぼにならないように、自分が折れてしまわないように保ってきました。

モラルハラスメントは、自分が被害者であることを証明すること、第三者にもモラルハラスメントの事実をわかってもらうことが非常に難しく、調停や裁判で有利な展開にもっていくことが困難な離婚事由です。

弁護士さんに相談すると、目に見えないものだけにわかりやすい証拠が必要であると言われ、診断書などがあるほうが良いということになり、はじめて病院に行こうと思いました。

それで、心療内科に行ってみたブログがこれです。↓

https://ally-bally-bee.hatenablog.com/entry/2013/10/06/015243?_ga=2.37332259.2045597432.1599999289-143262597.1597355633