Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

杉田俊介氏の本を読んで

杉田俊介著「非モテの品格-男にとって『弱さ』とは何か」を読んだ。このタイトルから期待していなかったが、内容は障害者福祉の話に及んでいる。
男らしく生きること→自立して生きること→家族の暮らしを支えること→ケアすること、という流れで内容がケアの話になっていくのだ。
著者の杉田俊介は、1975年生まれ。4歳上だが、同世代と言って良い。彼は大学院まで進んだが、目指していた研究職には就けなかった。その後、様々なバイトを経験し、20代半ばから障害者支援の仕事を十数年してきたという。子どもが生まれてからは、自宅で子育てをしながら、非常勤ヘルパーの仕事や物書きの仕事をしている。
杉田俊介氏の子どもは身体が小さく生まれ、SGA性低身長症という診断名がついているようだ。5歳頃から成長ホルモンの注射を打つようになったという。体の小ささが、大きなデメリットになるはずだ、という功利計算が親である僕らに働いたのだ、と彼は書いている。体が小さいと幸福にはなれない、という価値観は、ジェンダー差別や障害者差別、優生思想と無関係であると言えるのだろうか、障害者介助を生業にしてきた僕ら夫婦が、わが子に対してそういう価値観を押しつけていないと言えるのだろうか、と葛藤している。
私も、毛深い娘のために高いお金を支払い、キッズ脱毛をさせたが、その時の葛藤と似ており、共感した。
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僕らは相変わらず、「ケアの仕事では食べていけない。結婚もできない。子どもを持てない」というネガティブなストーリーに深く呪縛されてしまっているのだ。
その理想/現実のずれを埋めるために、「目の前に困った人がいるから、つらくても我慢しなければならない」「やりがい・生きがいのある仕事だから、低賃金でも構わない」「ケアは献身的で無償の行為であるほうが望ましい」「もっともっと気遣いできる介護者にならなければ」などの、自己啓発・承認の物語が注入されていく。これは構造的にはいわゆる「やりがいの搾取」であり、ケア業界に蔓延する自己責任論である。そして「やさしい若者たち」は、昔から「たいがいの職員がその動機は語りたがらない」のだ(渡辺鋭氣著『依存からの脱出』
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世の中の「差別」は、いざというときの、「身体的な反応」に出る、ということだった。それが本人たちを嫌な気持ちにさせて、生きる力を殺いでいくと思えた。たとえば、自閉症の青年と駅でエレベーターに乗ろうとしたら、小さな子どもを連れたお母さんが、反射的に、黙ってすっとエレベーターから降りる。そういうことはよくある。
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外出時にトラブルや摩擦が起きるのは、彼らの行動や身体が、一般市民の無意識の本音や感情の部分と、ぶつかるからでもある。それを「差別だ」とただたんに言葉によって批判するだけでは、もしかしたら、十分ではないのかもしれない。
精神障害者たちの中には、自分たちはコンフリクト(摩擦)を起こす自由が奪われている、と主張する人もいる。つまり、世の中で苦労する権利や、新しいことにチャレンジして失敗する権利が我々からは奪われているのだ、と。
僕たちが実感するような社会的な自由とは、きっと、こうした摩擦と共感、引力と斥力の鬩ぎ合いの中にあるものなのだろう。実際、知的障害のある青年や子どもたちも、敏感にそういうことを察して、支援者や介助者がどこまで許すか、というその人ごとの許容範囲を、ぎりぎりまで試してきたりすることもある。
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