Ally Bally Bee

夫のDV・モラルハラスメントから逃れて娘と二人暮らし。全ての人が生きやすい社会になることを願いつつ、今ひとり親 として出来ることをあらゆる角度から考えていきます。

養育費不払いについて考えたこと

朝日新聞デジタルで、下記のような内容を目にした。

>>

養育費不払いに給与天引きも 元配偶者に、明石市が検討

養育費不払い解消に取り組む兵庫県明石市は25日、困窮するひとり親家庭支援のため、不払いを続ける元配偶者の財産情報取得や給与差し押さえ、氏名公表などを可能にする「養育費泣き寝入り救済条例(仮称)」の来年4月施行をめざして、検討会を設置すると発表した。(以下略)

<<

画期的だと思う。取り組みに関しては、必要だと思うし、多くの地域で同様のものが出来て欲しいと思う。詳細をもっと知りたい。

養育費ゼロで慣れてしまった私だから、養育費についてあまり考えたことはなかったな、と記事を読んで考えた。

養育費は、収入に応じ、金額もある程度決まっている。

同じひとり親でも格差があるなぁ、ということは離婚調停中に感じていた。慰謝料がある人、ない人。家を出なければならなくなった人、家をもらうことのできた人。養育費も、夫が無職ならとれないし、高収入なら高くなる。

別れた配偶者にも親の意識を持っていてもらうことは大切かもしれないけれど、ひとり親の貧困について、税金に負っていた部分を減らし、自己責任の意識を促すことを目的とするなら、ちょっと違うかな、と思う。認知されていない婚外子もいる。

養育費を個別に取り立て、個別に元家族に振り込んでいっても、ひとり親の貧困にそれほど効果があるとは思えない。取り立てた養育費をまとめ、ひとり親支援サービスを充実させるために使うほうが、取り立てられる方も、養育費を受ける方も変に感情の動きに振り回されず済むのではないかとも思う。

養育費は、払う気のある親なら払っているものだろうし、払いたくないか、払う能力がないから払っていないという人が多いというのが現状だろう。

そこから強制的にとっていくとしたら、とられた者の怒りの向かう先は子と一緒に暮らす元配偶者や子どもにならないか、不安になる。DVがあったケースや、面会交流が出来ていないケースを考えても変に繋がっていない方が良い場合もあるのではないだろうか。

養育費は子どもの当然の権利で、離れた親も自分のことを思ってくれていることを実感させるものでもあると言われているが、そんな気持ちを持っていない親の場合はどうだろう。その親の給与から天引きされた分が間接的にであったとしても口座に振り込まれるとしたら、私ならあまり良い気がしない。

逆の立場で、自分が子どもと引き離されて面会交流もなく暮らしており、給与から養育費が天引きのみされるのであれば、もと配偶者がそれを適切に使ってくれるかも信用できないと思うし、かなり辛いだろう、と想像する。


福祉は偽善か

福祉の仕事をしていると誰かに伝えて、それを偽善だと言われたら、なぜ彼らがそう思うのかを聞いてみたい。このテーマで話し合うことは面白そうだと思う。私自身は、福祉の仕事をしている人を偽善者だと特段思わない。

考えてみると、私は福祉の仕事をはじめて4年目くらいだが、善いことをしていると思ってしたことがない。自分が高齢者になったとき、障害者になったとき、ひとり親として自分が死んだら我が子はどうなるのだろう、という心配から自分のためにこの仕事をはじめた。

ボランティアでもなく、賃労働として福祉の仕事をしている。別に、福祉の仕事をしているから偉いと思っているわけでもない。ほかの仕事より価値が高いとも、低いとも考えない。福祉労働者の待遇の低さには不満を持っているが、やりがいも感じているし、自分が得ているものは大きいと思っている。それは、善いことをしている満足感というより、学ぶことが多いという満足感や、純粋に誰かと笑い合う幸福感だったりする。

職場では、ボランティアででるイベントもあるが、私はあまり出ていない。自分のしたいこととの優先順位を考え、イベントに出ても良いと思ったときだけ出ている。

仕事の中で、独善的にならないようには気をつけている。ことばにして気持ちを表現できない人たちの気持ち考え、職員が予測して動くことが、実はその方を嫌な気持ちにさせるようなことだったり、余計なことになってないか、など。

美談に聞こえるようなことを、売名行為とか偽善という人は、そう言っておけばいいな、と思う。

東日本復興支援に際して、杉良太郎は、「ああ、偽善で売名ですよ。偽善のために今まで数十億を自腹で使ってきたんです。私のことをそういうふうにおっしゃる方々もぜひ自腹で数十億出して名前を売ったらいいですよ」と言ったようだ。

偽善というテーマについて考えるのは面白そうだが、自分が偽善者だと言わたり、思われるならそのままでもいいな、と思う。

そもそも、偽善者が悪いと思ってはいない。むしろ、私は偽善的なことが出来ないかもしれないことが少し怖い。自分が、親の介護に疲れたら、偽善的な顔をしてやっていられないのではないかと思う。愚痴を言いまくる気がする。自分には出来ないと言うかもしれない。見苦しい状態になるだろう。忍耐力に欠けるという特性が自分にはあるので、そのことが露呈すると思う。

最近、自分が善きことと思ってやったことはなんだっただろうかと、無理やり思い返してみると、汚い公共のトイレを自分とあとの人が気持ちよく使えるために、少しきれいにしたことかな、と思った。でも、それは自分のためでもあったし、ほかの人のためになるから、善きことだからとやったことではない。今、このテーマで記事を書く中で考え、もしたらあれは、ほかの人にとっても善かったかもしれないと思うだけだ。

杉田俊介氏の本を読んで

杉田俊介著「非モテの品格-男にとって『弱さ』とは何か」を読んだ。このタイトルから期待していなかったが、内容は障害者福祉の話に及んでいる。
男らしく生きること→自立して生きること→家族の暮らしを支えること→ケアすること、という流れで内容がケアの話になっていくのだ。
著者の杉田俊介は、1975年生まれ。4歳上だが、同世代と言って良い。彼は大学院まで進んだが、目指していた研究職には就けなかった。その後、様々なバイトを経験し、20代半ばから障害者支援の仕事を十数年してきたという。子どもが生まれてからは、自宅で子育てをしながら、非常勤ヘルパーの仕事や物書きの仕事をしている。
杉田俊介氏の子どもは身体が小さく生まれ、SGA性低身長症という診断名がついているようだ。5歳頃から成長ホルモンの注射を打つようになったという。体の小ささが、大きなデメリットになるはずだ、という功利計算が親である僕らに働いたのだ、と彼は書いている。体が小さいと幸福にはなれない、という価値観は、ジェンダー差別や障害者差別、優生思想と無関係であると言えるのだろうか、障害者介助を生業にしてきた僕ら夫婦が、わが子に対してそういう価値観を押しつけていないと言えるのだろうか、と葛藤している。
私も、毛深い娘のために高いお金を支払い、キッズ脱毛をさせたが、その時の葛藤と似ており、共感した。
>>
僕らは相変わらず、「ケアの仕事では食べていけない。結婚もできない。子どもを持てない」というネガティブなストーリーに深く呪縛されてしまっているのだ。
その理想/現実のずれを埋めるために、「目の前に困った人がいるから、つらくても我慢しなければならない」「やりがい・生きがいのある仕事だから、低賃金でも構わない」「ケアは献身的で無償の行為であるほうが望ましい」「もっともっと気遣いできる介護者にならなければ」などの、自己啓発・承認の物語が注入されていく。これは構造的にはいわゆる「やりがいの搾取」であり、ケア業界に蔓延する自己責任論である。そして「やさしい若者たち」は、昔から「たいがいの職員がその動機は語りたがらない」のだ(渡辺鋭氣著『依存からの脱出』
<<
>>
世の中の「差別」は、いざというときの、「身体的な反応」に出る、ということだった。それが本人たちを嫌な気持ちにさせて、生きる力を殺いでいくと思えた。たとえば、自閉症の青年と駅でエレベーターに乗ろうとしたら、小さな子どもを連れたお母さんが、反射的に、黙ってすっとエレベーターから降りる。そういうことはよくある。
<<
>>
外出時にトラブルや摩擦が起きるのは、彼らの行動や身体が、一般市民の無意識の本音や感情の部分と、ぶつかるからでもある。それを「差別だ」とただたんに言葉によって批判するだけでは、もしかしたら、十分ではないのかもしれない。
精神障害者たちの中には、自分たちはコンフリクト(摩擦)を起こす自由が奪われている、と主張する人もいる。つまり、世の中で苦労する権利や、新しいことにチャレンジして失敗する権利が我々からは奪われているのだ、と。
僕たちが実感するような社会的な自由とは、きっと、こうした摩擦と共感、引力と斥力の鬩ぎ合いの中にあるものなのだろう。実際、知的障害のある青年や子どもたちも、敏感にそういうことを察して、支援者や介助者がどこまで許すか、というその人ごとの許容範囲を、ぎりぎりまで試してきたりすることもある。
<<

ひとり親の働き方について

ひとり親でありつつ、働きながら夜間学校に通い社会福祉士の勉強をしているなんて、僅かな気を許した人にしか話さなかった。

同じ社会福祉士を目指しているクラスメイトにさえ出来れば言いたくなかった。

なぜなら、「子どもがかわいそう」と思われるのが嫌だったからだ。正直、私自身が一番「子どもをかわいそう」と思っている。それでも働きながら夜間学校に通おうと決意するに至った理由なんて他人に察してもらえるとは思えなかった。

2014年3月に横浜で起こった「ベビーシッター事件」は。シングルマザーが深夜勤務のため、インターネットで探したベビーシッターに預け、長男を殺されてしまった事件だけれど、当時母親に対してどれだけの批判の声が浴びせられたことか。

例えば、ある議員は、事件直後のブログに「大切な子宝を乳飲み子のうちから赤の他人に預けてはばからない風潮は、なぜ当然のようにまかり通っているのでしょうか。こんな風潮は、そろそろ止めにした方が良いと思うのです」と、非難している。

シングルマザーが安心して働きながら子育てできる環境が整っているとはいえない社会で、子どもとの生活を大切にしようと思って非正規の仕事をしても、 経済的に安定していない、子どもが可哀想だと非難されるかもしれない。

そもそも、シングルマザーである時点で、雇用されにくいが、運良く正規雇用になったところで祖父母などの援助なく、しっかり子どもと関わりつつ働ける企業など、どれだけあるのだろうか。

生活保護を受けているシングルマザーだって、怠けたいからそうしているわけではない。

私自身に関しては、精一杯頑張っている。頑張りすぎて潰れない程度に頑張っている。

シングルファザーについてもそうだけれど、ひとり親の働き方や子育てを否定する人がいたら、何をどう努力したら良いのかについて教えてもらいたい。

優生思想について

障害者福祉に携わるものとして、おさえておかなければならないと思っていたのが、優生思想についてだ。障害のある人が子孫を残すことを絶たれるだけでなく、今を生きる障害のある人の存在がただちに否定されるという考え方だ。恐ろしいことだけれど、2016年の「やまゆり園事件」に象徴されるように、今現在の日本にも根深くある思想だ。

藤井克徳著「わたしでさいごにして-ナチスの障害者虐殺と優生思想」を読んだ。
ナチスのT4作戦についてや、日本における優生思想について書かれた本である。
日本の優生保護法には、精神障害者知的障害者ハンセン病の人が妊娠した場合に、人工妊娠中絶の規定があった。この規定に則り実施された人工妊娠中絶件数は、確認されているだけて5万8972人となっているという。精神障害者知的障害者においては本人の意思が無視された。拒むものにおいては、身体を拘束しても、麻酔薬を用いてもかまわなかった。
被害の実体は社会の表面に浮上することはなかったが、大きな転機があったのは、つい最近、2017年のことである。同意なく不妊手術を受けさせられた知的障害のある60代の女性が提訴に踏み切った。2018年、優生保護法の施工から70年にして初めて訴訟が起こされている。70年間も封印状態にあったということが、不思議でならない。戦後の人権教育はいったい何だったのだろう。しかも、今年2019年、5月の判決では、法律が憲法に違反するものであったと認められたものの、損害賠償請求権は消滅されたとの判断で、国会が賠償するための法律を作らなかったことも認めず、原告の請求が棄却されている。
福祉国家として私が憧れているスウェーデンも、1934年にスウェーデン不妊法を制定し、以降40年間あまり、福祉国家を維持するため、国家の安定運営を優先し、優生政策を強力に推進していたようだ。財政面で負担の多い障害者が産まれてくることが不都合だったようだ。
ノーマライゼーションの理念の推進と不妊法が一定期重なっていたというのが興味深い。
>>
(やまゆり園事件の)植松被告が主張するように障害者の存在を否定するのであれば、そらは社会そのものの否定に他なりません。そして、未来の自分自身をも否定してしまうのです。社会のあり方も、個々の人生設計も、障害を抜きには考えられません。
<<
できることは何か、ということで著者が提唱するのは、まず知ること、そしてわかること、伝えること、動くこと、ということだ。動ける人間になれたらいいな、と思いつつ、動けていない現在の私が出来ることは、まず知るために動くことだ。今から本屋に行こう。

わたしで最後にして: ナチスの障害者虐殺と優生思想

わたしで最後にして: ナチスの障害者虐殺と優生思想

男性の弱さという視点とDV

学生の頃、文学や芸術が趣味の男性と喫茶店で話していた内容を割とはっきり覚えている。彼は、「女性は良いなぁ。就職しなくても、主婦になるという選択肢があるから」と言っていた。私は、バカにされたような気がして、女性の生き辛さを訴え、彼の言ったことの意味を深く考えていなかった。
でも、この本を読み、彼の言っていたことが少しわかった。男性の中にも、根深いミサンドリー(男性嫌悪)があるということを。自らの痛みに気づけない男性が多い中で、彼は、自らの痛みを自覚し、向き合っていたのだろう、と思う。それは、男性の共感を得にくいから、女性の私に話してみたのかもしれない。
>>
資本主義的な労働の過酷さ。男らしくあらねばならない、という責務。仲間のためというプレッシャー。妻への不断の気配り。世の中からの、男性に対する様々な批判。どんなに嫌でも、他人や社会的な弱者を蹴落とさねば生きていけない(能力主義)という現実に対する吐き気。それらを黙って呑みこんで、我慢して、一人の自立した強い「男」であり続けなければならない、ということ・・・・・・。
資本主義と性分業と優生思想(能力主義)が絡みあっていくポイントとしての、男性嫌悪。
我慢や沈黙こそが、実は間違った男らしさへの優生的な執着であり、所有欲望かもしれない。
弱いものが、より弱いものを叩く。自分の弱さを認められないから、一番嫌な最低の暴力を、自分より弱い立場の誰かにふるってしまう。そしてそんな暴力の記憶を、あとから正当化したり、集団の責任に解消したり、無感覚になったり、かえって自分こそが被害者だったのだと思いこんだりしていく・・・・・・。
DVもまた、一種の暴力嗜癖となる場合があり、資本主義的な競争に対する不適応に陥った人が、暴力によって「男らしさ」を過剰な形で取り返し、それによってアイデンティティを補完する役割がある、と言われている
杉田俊介著「非モテの品格-男にとって『弱さ』とは何か」より)
<<
杉田俊介著「非モテの品格-男にとって『弱さ』とは何か」から引用した。品格本ブームにのってつけられたかのようなタイトルから内容を誤解する人もいるかもしれない。少し勿体無いと思う。この本の面白いところは、このようなタイトルでありながら、障害者福祉の話に展開していくところである。そのテーマについては、このブログの記事も分けて書きたい。話を戻す。
怖いと言えること、泣けること、逃げられることは、大切なことなのに、「男らしさ」を守るため、自らの脆弱性や恐怖を否認せざるをえない状況に陥っている男性。
今は、学生時代語り合った彼に共感できる。女性の方が良いとは思えないまでも、男性が羨ましいとは、思わない。
男性によるDV、事件、その当事者の背景を考えみていくなかで、男性の「弱さ」という視点は重要だ。

事件の判決を読んで

DVをテーマのひとつとしているブログの割に、世を騒がせている事件についてはあまり書いてこなかったな、と、今回も新聞の一面に載った目黒の虐待死事件の判決を読んで読んで思った。
東京地裁は17日、懲役8年(求刑・懲役11年)の実刑判決を言い渡した。守下実裁判長は「夫の暴行を認識しながら結果的に容認し、犯情は重い」と指摘する一方、「夫からの心理的DV(家庭内暴力)を受けていたことは否定できない」と述べた。(朝日新聞デジタルより)
DVを受けていたとされる母親の罪が重いことに変わりはない。ただ、心理的DVがどのようなものか知る身としては、母親がどんな風に追い詰められていったのか、わかる。離れるべきと仮に思ったとしても離れられないという状況もよくわかる。でも、子どもを、守って欲しかった。
母親をも被害者と思ってしまうと、継父の方も被害者という見方もできるかもしれない。彼の生い立ちは詳しく知らないが、生きてきた環境や条件が違えば違う人格であったかもしれない。病気だったのかもしれない。と、考えれば考えるほど被害者と加害者の線引きは難しくなる。死んでしまった子どものみ、紛れなく被害者だ。
何が正しいとか言えないけれど、圧倒的に力関係において優位であるもの、例えば大人が、劣位であるもの、例えば子どもを痛めつけるという行為も、それに加担したり、見て見ぬふりをするという行為も恥ずかしい。
でも、私が隣人ならどうしていたのだろうか。逆恨みされ、自分や我が子に危害が及ぶことを恐れて、匿名通報にとどまっていたのではないかと思う。